魚町の料飲街
西魚町の料飲街としての歴史はかなり古かったようである。しかし裏付ける資料が乏しいが、次のような史実がある。名経世家河合寸翁(1767〜1841)によって西魚町海老屋権六の料亭を藩用金で天保元年(1830年)に新築し、大坂・江戸の藩御用の金主の接待所にあてている。
明治7年(1874年)、大阪鎮台の二個中隊の姫路駐在が決定されたのに伴い、風紀対策上、遊郭の設置が唱えられるようになり、一時、西魚町がその候補地となったが、地元の反対により野里梅ヶ枝町に決定したという一幕もあった。
戦前は芸妓・娼妓のいるまちとして花柳街と呼ばれていた。明治時代は芸者の養成と斡旋をする検番が竹鹿・井上・中店の三ヶ所にあった。明治の末期には合併して南陽社一本になった、大正初年、芸妓・舞妓の質的向上が養成され、城南小学校の校区外出身の者を対象として「本町女紅場」が設けられ、尋常小学校の教科を教え、併せて茶の湯・活花および裁縫等も教えたが、大正6年(1917年)に廃止された。
その後、竪町に新検番「い店」ができ、まもなく東検番と称し、昭和初期になって姫路検番となる。大正2年(1913年)、芸者数137人・舞妓17人の在籍であった。戦後、姫路・白鷺の二検番は昭和33年(1958年)の買収防止法による赤線廃止を機に1本となり、昭和35年(1960年)頃には芸者78人・舞妓1人に減少して時代の波を受けていく。
その後、社会の洋風趣向の浸透によりバー・キャバレー等の社交形態の多様化により、芸者を基調とした和風趣向は衰退し、しっとりした粋な雰囲気を持った魚町も、大きく変貌していく。しかし夜の歓楽街として、播州一円にその顧客をもつ魚町は新しい風潮を貪欲に呑み込んで関西有数のレジャー産業地域としての立場を固めつつある。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
魚町
昭和36年(1961年)よりの自治行政の規模適正化により西魚町・恵美酒町および福中内新町・西魚町の一部を含めて、公称:魚町とし自治会も単一化した。昭和59年(1985年)9月22日、復興土地区画整理事業により法制化された。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
西魚町
姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。恵美酒町の西に続く東西の町筋で北は俵町・福中町。慶長6年(1601年)の町割で成立。寛永8年(1631年)の(「那波宗顕譲状」前川家那波文書)に「にしうほ丁」とある。慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図に町名が見え、町の西部に光明寺・慈恩寺・庚申寺が、さらに西の外堀近くに籠屋(※牢屋)が記されている。寛文7年ー天和2年(1667〜82)の姫路城下図には籠屋(※牢屋)の前(東)に「人切場」とある。この絵図で光明寺が西塩町に恵美酒町がないのは誤りか?天和2年ー宝永元年(1682〜1704)の姫路図では庚申寺が西福寺となり、籠屋あたりは内蔵になっている。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数64・地子銀734匁余。元治元年(1864年)、尊王攘夷派の藩臣・河合宗元ら8名が当町の獄舎で斬首の刑や自刃の命を受けた(姫路城史)。これを甲子の獄という。
絵図帳にみえる寺のうち浄土宗光明寺は慶長の町割の時、飾万津から移転。開基は念誉。同宗西福寺は初め惣社(射楯兵主神社)付近にあったが、天正(1573〜92)頃、当地に円誉生西が開基し、慶長年間、池田輝政が本堂を建立(播磨鑑)。本尊は帝釈天である庚申天も祀っていたので、第二次世界大戦までは「庚申さん」、庚申寺とも称されたが現存しない。臨済宗妙心寺派慈恩寺はもと赤穂郡栗栖(現:赤穂市)にあり、赤松家が代々帰依した寺。赤松満祐のとき城の北西にあたる西城戸に移したが、慶長の町割で当地に建立(「播磨府中めぐり拾遺」智恵袋)。第二次世界大戦で全焼し、山之井町に移った。(「兵庫の地名Ⅱ」)
池田輝政の町割のとき、既に西魚町の名は見えていた(木多文化振興会蔵城下図)。多分、町づくりの時、生魚業者の集団があり、総社の東隣りにある東魚町に対し、西を冠し西魚町と称したのであろう。魚町・魚屋町・肴町等の町名は全国の城下町に多く52ヶ所と報告されている(「日本地名辞典」人物往来社・「旧城下町の地名について」矢守一彦)。昭和36年(1961年)よりの自治行政の規模適正化により西魚町・恵美酒町および福中内新町・西魚町の一部を含めて、公称:魚町とし自治会も単一化した。昭和59年(1985年)9月22日、復興土地区画整理事業により法制化された。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
料飲街
西魚町の料飲街としての歴史はかなり古かったようである。しかし裏付ける資料が乏しいが、次のような史実がある。名経世家河合寸翁(1767〜1841)によって西魚町海老屋権六の料亭を藩用金で天保元年(1830年)に新築し、大坂・江戸の藩御用の金主の接待所にあてている。
明治7年(1874年)、大阪鎮台の二個中隊の姫路駐在が決定されたのに伴い、風紀対策上、遊郭の設置が唱えられるようになり、一時、西魚町がその候補地となったが、地元の反対により野里梅ヶ枝町に決定したという一幕もあった。
戦前は芸妓・娼妓のいるまちとして花柳街と呼ばれていた。明治時代は芸者の養成と斡旋をする検番が竹鹿・井上・中店の三ヶ所にあった。明治の末期には合併して南陽社一本になった、大正初年、芸妓・舞妓の質的向上が養成され、城南小学校の校区外出身の者を対象として「本町女紅場」が設けられ、尋常小学校の教科を教え、併せて茶の湯・活花および裁縫等も教えたが、大正6年(1917年)に廃止された。
その後、竪町に新検番「い店」ができ、まもなく東検番と称し、昭和初期になって姫路検番となる。大正2年(1913年)、芸者数137人・舞妓17人の在籍であった。戦後、姫路・白鷺の二検番は昭和33年(1958年)の買収防止法による赤線廃止を機に1本となり、昭和35年(1960年)頃には芸者78人・舞妓1人に減少して時代の波を受けていく。
その後、社会の洋風趣向の浸透によりバー・キャバレー等の社交形態の多様化により、芸者を基調とした和風趣向は衰退し、しっとりした粋な雰囲気を持った魚町も、大きく変貌していく。しかし夜の歓楽街として、播州一円にその顧客をもつ魚町は新しい風潮を貪欲に呑み込んで関西有数のレジャー産業地域としての立場を固めつつある。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
慈恩寺
臨済宗妙心寺派慈恩寺はもと赤穂郡栗栖(現:赤穂市)にあり、赤松家が代々帰依した寺。赤松満祐のとき城の北西にあたる西城戸に移したが、慶長の町割で当地に建立(「播磨府中めぐり拾遺」智恵袋)。第二次世界大戦で全焼し、山之井町に移った。(「兵庫の地名Ⅱ」)
西福寺の西隣で西魚町の西端に位した。臨済宗。応永年間(1394〜1427)、赤松満祐の代に赤穂郡栗栖より移転した古刹である。池田輝政より寺領を与えられた。境内には樹齢数百年の大銀杏があり、播磨名所巡覧図絵にも紹介されて、名所となっていた。昭和20年(1945年)7月の大空襲によって、すべてが焼失し山野井へ移る。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
光明寺
浄土宗光明寺は慶長の町割の時、飾万津から移転。開基は念誉。(「兵庫の地名Ⅱ」)
慶長5年(1600年)、池田輝政の入部により町割に応じて飾磨津より移転した浄土宗の名門である。明治18年(1885年)、姫路および飾東郡15ヶ村は東西2つのブロックに分割され、東区務所は上寺町(今の五軒邸)の妙立寺に、西区務所は光明寺に設置され、連合議員20名が区政に参与した。しかし明治20年(1887年)4月、2区は再び1区となり、戸長役場が綿町に設置されたため、光明寺の区務所は廃止された(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
光明寺と西福寺(魚町)
光明寺は、江戸初期に飾磨津から現在地に移った。浄土宗で開基は然誉。明治18年姫路町と飾東郡の西区役所が置かれた。(『城南地区』をたずねて)
大正の米騒動
第一次世界大戦中に物価値上げが甚だしくなり、米は特に顕著で大正4年(1915年)、米1.5㎏(1升)12銭が、大正7年(1918年)には60銭まで上昇した(神戸又新日報大正8年8月9日付)。同年8月9日、大塩町で600戸の主婦たちが村役場に押しかけ米の値下げを要求した。翌10日、飾磨町の町民が米屋に押しかけ、1.5㎏を38銭で売り未然に免れた。8月13日夜、南畝町の中吉米店・下寺町の植原米店・福本町の萩田米店らが暴徒によって襲撃された。ちなみに当時、小学校教員の平均給与27円、警察官の初任給14円(「兵庫史探訪」)で、いかに暴騰していたかがうかがわれる。
この事態を憂慮した市民の有産階級の有志は「米の廉売会」を武徳殿に設けた。その販売所には市民が列をなした。1升30銭、一人3升を限度とし、5日間続けた(神戸又新日報大正8年8月16日付)、世に大正の米騒動として伝えられている真相である。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
武徳殿
明治37〜38年(1904〜1905年)の日露戦争のあと、武道奨励から武徳殿設置の世論が盛り上がり、当時の姫路警察署長海江田権蔵ら有力者を中心に1万2千円の浄財により藩用監獄趾に明治40年(1907年)7月起工、半年余で完成した(1月1日落成)。木曽御料林からの払い下げで総桧造りであった。階下は柔剣道の道場で周囲は一段と高く観覧席になっていた。二階は百数十畳の大広間で催し場となり、商店の陳列会・展示場・講演会等に使用され、昭和6年(1931年)に現在の市民会館の前身である市公会堂が建てられるまでは広く市民に利用され交流の場ともなった。
武徳殿の南側は姫路城の外堀であったが(現在の大蔵前公園)、その土塁を登って武徳殿の北側にあった城南小学校へ毎日通ったものだと古老は懐かしむ(白銀町網川たみ談)。武徳殿と隣接して昭和8年(1933年)より常設消防署と火見櫓が設けられていた。昭和20年(1945年)7月の大空襲で焼失し、戦前の人々に親しまれた建物は記憶の彼方へ消え去ったのである。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
憲兵隊屯所
藩用監獄跡地に明治29年(1896年)1月16日、旧軍隊の治安警察であった憲兵隊の屯所が設置された。これは旧城内に歩兵第十聨隊が駐屯していたが明治29年(1896年)11月、開設予定の騎兵・野砲兵第十聨隊、輜重第十大隊および一部結成の歩兵第三十九聨隊に備え、歓楽街が近くにあり遊休官有地の活用等の理由で設置したと見られる。憲兵隊は明治31年(1898年)、第十師団の設置と共に、明治33年(1900年)、光源寺前に移り、姫路憲兵隊と改称した。本部を姫路に置き、姫路・神戸・鳥取・舞鶴・福知山の5カ所に分隊を配置した。憲兵隊は師団から独立した存在で、陸軍大臣・憲兵司令部の指揮系統に属し、戦前の最高権力の一つであった。戦前の権力機構を調べるうえに有力な資料でもある。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
藩用監獄趾
西魚町筋の西端に藩用監獄が古くからあり、籠屋・牢舎あるいは揚屋(まがりや)とも称した。この施設と関連して、ある時期には隣接の船場川の中州を人切場と称し、処刑場になっていたこともある。
幕末、元治元年(1864年)、尊皇攘夷派の姫路藩士・河合宗元ら同士8名が、ここで獄死し、世に甲子の獄(かっしのごく)と称した。現在、大倉前公園に記念碑が建てられている。敗戦後、アメリカ進駐軍の意向で、一時、護国神社の境内に解体放置されたが、蟹江宗次郎姫路郷友会会長ら有志によって昭和43年(1968年)、現在地に再建された。大蔵前公園は昭和38年(1963年)、外堀を埋めて土地造成を行い開設された児童公園である。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図に町名が見え、町の西部に光明寺・慈恩寺・庚申寺が、さらに西の外堀近くに籠屋(※牢屋)が記されている。寛文7年ー天和2年(1667〜82)の姫路城下図には籠屋(※牢屋)の前(東)に「人切場」とある。(「兵庫の地名Ⅱ」)
憲兵隊屯所
藩用監獄跡地に明治29年(1896年)1月16日、旧軍隊の治安警察であった憲兵隊の屯所が設置された。これは旧城内に歩兵第十聨隊が駐屯していたが明治29年(1896年)11月、開設予定の騎兵・野砲兵第十聨隊、輜重第十大隊および一部結成の歩兵第三十九聨隊に備え、歓楽街が近くにあり遊休官有地の活用等の理由で設置したと見られる。憲兵隊は明治31年(1898年)、第十師団の設置と共に、明治33年(1900年)、光源寺前に移り、姫路憲兵隊と改称した。本部を姫路に置き、姫路・神戸・鳥取・舞鶴・福知山の5カ所に分隊を配置した。憲兵隊は師団から独立した存在で、陸軍大臣・憲兵司令部の指揮系統に属し、戦前の最高権力の一つであった。戦前の権力機構を調べるうえに有力な資料でもある。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
武徳殿
明治37〜38年(1904〜1905年)の日露戦争のあと、武道奨励から武徳殿設置の世論が盛り上がり、当時の姫路警察署長海江田権蔵ら有力者を中心に1万2千円の浄財により藩用監獄趾に明治40年(1907年)7月起工、半年余で完成した(1月1日落成)。木曽御料林からの払い下げで総桧造りであった。階下は柔剣道の道場で周囲は一段と高く観覧席になっていた。二階は百数十畳の大広間で催し場となり、商店の陳列会・展示場・講演会等に使用され、昭和6年(1931年)に現在の市民会館の前身である市公会堂が建てられるまでは広く市民に利用され交流の場ともなった。
武徳殿の南側は姫路城の外堀であったが(現在の大蔵前公園)、その土塁を登って武徳殿の北側にあった城南小学校へ毎日通ったものだと古老は懐かしむ(白銀町網川たみ談)。武徳殿と隣接して昭和8年(1933年)より常設消防署と火見櫓が設けられていた。昭和20年(1945年)7月の大空襲で焼失し、戦前の人々に親しまれた建物は記憶の彼方へ消え去ったのである。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
大正の米騒動
第一次世界大戦中に物価値上げが甚だしくなり、米は特に顕著で大正4年(1915年)、米1.5㎏(1升)12銭が、大正7年(1918年)には60銭まで上昇した(神戸又新日報大正8年8月9日付)。同年8月9日、大塩町で600戸の主婦たちが村役場に押しかけ米の値下げを要求した。翌10日、飾磨町の町民が米屋に押しかけ、1.5㎏を38銭で売り未然に免れた。8月13日夜、南畝町の中吉米店・下寺町の植原米店・福本町の萩田米店らが暴徒によって襲撃された。ちなみに当時、小学校教員の平均給与27円、警察官の初任給14円(「兵庫史探訪」)で、いかに暴騰していたかがうかがわれる。
この事態を憂慮した市民の有産階級の有志は「米の廉売会」を武徳殿に設けた。その販売所には市民が列をなした。1升30銭、一人3升を限度とし、5日間続けた(神戸又新日報大正8年8月16日付)、世に大正の米騒動として伝えられている真相である。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
千姫
戦国末期の悲劇のヒロインとして有名な千姫ですが、大坂城落城ののち、今から400年前の元和2年(1616年)、桑名城主本多忠政の嫡男忠刻と結ばれ、翌年、父忠政の転封により姫路城にやってきて、一男一女を儲け、幸せな日々を送ります。そうした生活も夫忠刻の死によって終わり、寛永3年(1626年)、千姫は江戸にと戻るのですが、姫路で暮らした10年は千姫の中では何物にも代えがたい幸せな日々だったのです。
勝原町
勝原町は行政地区の適正化により勝原区宮田・山戸・大津区長松の一部を区画整理し、 1968年(昭和43)に誕生した新しい町です。勝原区宮田は江戸時代の宮田村で幕末には龍野藩領、山戸は山戸村で幕末には幕府領、大津区長松は長松村で幕末には讃伎国丸亀藩領でした。1889年(明治22年)、町村制施行により宮田村・山戸村は勝原村宮田・山戸、長松村は大津村長松となります。
それまで大津町付近は蓮池と田んぼばかりの田園地帯でしたが、1939年(昭和14)に日本製鉄広畑製鉄所が操業を開始すると、この辺りの田畑が従業員用の住宅地として注目されます。1946年(昭和21)、ラモート合併により勝原村・大津村は姫路市に吸収合併されて姫路市勝原区・大津区となります。日本製鉄は進駐軍によって解体されたものの、 1950年(昭和25)、 広畑製鉄所の経営は富士製鉄に引き継がれます。朝鮮戦争の特需により広畑製鉄所の設備は拡張されると、1957年(昭和32年)頃からはアパート形式の住宅が建ち始め、1962年(昭和37)には富士製鉄広畑鉄工所の「勝原社宅」の建築が始まります。1968年(昭和43年)11月に区画整理が行われ勝原町となります。しかし昭和40年代から鉄鋼需要の伸びが鈍化し、生産の適正化のため、1970年(昭和45)に富士製鉄は八幡製鉄と合併し新日本製鉄となります。その後も新日本製鉄は合理化を進め、勝原住宅も入居数も減少し、1993年(平成5)には全高炉の操業が停止し、勝原住宅は無人となります。1997年(平成9)、姫路市は大津勝原地区を新業務拠点地区と位置づけ、その跡地は、「フェアヴィラージュあやみの」として分譲されます。 2004年(平成16)、新日本製鐵(現・新日鐵住金)広畑製鐵所社宅跡地に「イオン姫路大津ショッピングセンター」が開業し、2008年(平成20)、JRはりま勝原駅が開業します。