靄楽園

戦前、この地にはあいらく園という料理旅館がありました。この旅館は元は酒井家家老・本多意気揚の下屋敷で隣接する船場川から水を引いて、池泉・名石を配した風格の高い邸宅であった。明治時代の中頃、福中町の豪商・あが久呉服店の矢内久七が買収し、その後、ひさご茶屋が継承し、料理旅館として不動の地位を築きました。ひさご茶屋はのちにまねき食品となり、ここの板前はのちに割烹料亭「松びし」を開業します。©芳賀一也

忍町の西端、十二所前南側の約5千㎡の地に戦災に会うまであいらく園という料理旅館があった。酒井家入部までは護念院という山伏寺院であった。その後、酒井家家老本多家の下屋敷がこの寺跡に設けられていた。西に隣接する船場川より水を引いて、池泉・名石を配した風格の高い庭園であい楽園と号していた。
明治の中頃、福中町の豪商・あが久呉服店の矢内久七が買収し、その後、ひさご茶屋が継承した。日露戦争の戦勝に軍都姫路が活気づいていた頃には、あい楽園は、当時、福島楼・井上楼とともに三軒だけ許されていた料理旅館として不動の地位を築き、姫路の名所として阪神間に知られたという。大太平洋戦争に入る昭和15年(1940年)頃までは播州一円の政財界の夜の社交場として、その名門をうたわれたが、戦災により灰塵となり、都市計画によって跡形もなくなった。
(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)