戦国末期の悲劇のヒロインとして有名な千姫ですが、大坂城落城ののち、今から400年前の元和2年(1616年)、桑名城主本多忠政の嫡男忠刻と結ばれ、翌年、父忠政の転封により姫路城にやってきて、一男一女を儲け、幸せな日々を送ります。そうした生活も夫忠刻の死によって終わり、寛永3年(1626年)、千姫は江戸にと戻るのですが、姫路で暮らした10年は千姫の中では何物にも代えがたい幸せな日々だったのです。
将軍徳川秀忠の長女として生まれた千姫は、わずか8才で大坂城にいた豊臣秀頼の妻となります。しかしこの時、德川家と豊臣家は天下人の座をめぐって険悪な状態にあり、千姫は豊臣家の嫁であると同時に人質でもありました。千姫が22才の時、ついに徳川家康・秀忠の父子は千姫のいる大坂城を攻めます。千姫は落城寸前の大坂城から逃れ、父秀忠に夫豊臣秀頼とその母淀君の命乞いをしますが聞き届けられることはなく、秀頼と淀君は自刃し、大坂城は落城します。
失意の千姫はむなしく江戸へと旅立ちますが、その帰路、桑名の渡しで見目秀麗な若侍に目を奪われます。この若侍は德川家康の家臣で猛将として名高い本多忠勝の孫本多忠刻でした。忠刻は戦後処理のため大坂にいる父忠政に代わって、領内を通る千姫を出迎えにきたのでした。一方、天下泰平の世の中をつくるためとはいえ孫娘の嫁ぎ先を滅ぼした家康は千姫の行く末を案じます。とはいえ千姫は将軍の長女であり、その母は織田信長の妹にして美女として名高いお市の方の三女お江で、千姫と釣り合う家柄の男性などそういるはずもありません。ところが家康は、侍女から千姫が本多忠刻を見初めたという話を聞きます。忠刻の父は家康の家臣本多忠勝の子本多忠政ですが、その母は徳川家康の長男松平信康の娘熊姫で、その母は織田信長の娘徳姫です。つまり忠刻は徳川家康と織田信長の曾孫ですから、血筋としては千姫以上かもしれません。しかも本多家は德川家の譜代ですから再び悲劇を味わうことはありません。すでにこの頃、病床にあった家康は同じ孫娘である熊姫と忠刻を駿府城に呼び、千姫のことを託します。
そして元和2年?月?日、千姫は江戸を発って桑名に向かい9月29日(1616年11月8日)に本多忠刻と結婚し、本年は千姫の結婚四百周年となります。
翌元和3年(1617年)、本多忠政は桑名15万石から姫路15万石に転封となり、嫡男忠刻には部屋住ながら千姫の化粧料として10万石を賜り、?月?日、姫路城に入ります。忠政は千姫と忠刻のため西の丸に百間廊下と称される侍女たちの住まいを増築し、中書丸と称される御殿を築きます。また千姫が客人をもてなすための施設として大手門の内側に武蔵野御殿(伏見城からの移築と伝わる)を築いたといいます。
千姫はここ姫路で一男一女を設け、幸せに暮らしましたが、長男幸千代、夫忠刻が病で亡くなり、寛永3年(1626年)、40才の時、姫路を離れ江戸に戻ります。その長女勝姫は寛永5年(1628年)、池田輝政の孫光政に嫁ぎ、千姫は一人暮らしとなります。その後も千姫は将軍徳川家光の姉として大切にされ、寛文6年2月6日(1666年3月11日)、江戸の竹橋の邸で70才で亡くなりました。つまり千姫の三百五十回忌となるのです。