南町は姫路駅前の大手前通りより西にある町で、姫路城の城下町の南端にあることからその名があります。江戸時代はこの町の南にあった飾磨口門の内側にある町人町でした。戦後、山陽百貨店や播州初のスーパーマーケット・銀ビルストアなどが次々に開店して新しいショッピング街となります。最近は一時の賑わいはないものの、立地のよさと土地の安さから若者たちが集まり、老舗の飲食店とおしゃれな居酒屋が混在する町となり、コワーキングスペースなども集まっています。
江戸時代の歴史
慶長6年(1601年)、池田輝政の町割において飾磨口門内は防備のための空地とされていました。しかし榊原忠次公時代のものである「侍屋敷新絵図」を見ると、飾磨口門内に「新町」とあり、新しい町が置かれたことがわかります。そして本多忠国時代の「姫路城絵図」には「錺万口門内新町」とあります。「南町」の名が初めて見えるのは榊原政岑時代の姫路町飾万津町地子銀控で、この頃に「南町」の名が起こったと考えられます。
酒井忠恭時代に描かれた「南町絵図」によれば、街道は飾磨口門を北から入って左折し、その東の突き当たりには光徳寺がありました。南町は、現在のボンマルシェ西端に5軒、その向かいには土塁があり、十二所通りに突き当たって西南に5軒の小さな町で、地子銀は年間で88匁余(約3万円)程度で、西は「十二所前」という武家町と接しており、その境には木戸と夜番所が設けられていました。
明治時代以降の南町
現在の南町は、北は山陽百貨店と神姫バスの間の小路(外堀趾)から南は十二所線(国道二号線西行)まで、東は大手前通りから西は飾磨街道までで、町内には南町商店街や栄町商店街、山陽百貨店やボンマルシェ姫路店、山陽電車姫路駅の高架下にあるMOLTIひめじなどの商業施設が集まり、老舗の飲食店にくわえ、最近では洒落た居酒屋やコワーキングスペースなどもでき賑わっています。
そもそも南町という町名は、城下町の最南部に位置することから、その名があります。実は現在のMOLTIひめじや南町商店街のある場所には、江戸時代、飾磨口門があり、南町はその内側に置かれたわずか10軒ほどからなる小さな町人町でした。しかし廃藩置県が行われると外堀にあった5つの門はすべて壊され、明治11年(1878年)、飾磨口門趾に公立姫路病院(のちの県立姫路病院)が建設されました。明治33年(1900年)、県立姫路病院(のちの日赤姫路病院)が薬師山の飾磨県庁舎に移転すると、翌年、その跡地に姫路警察署が新築されました。
史料
姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。加納町の南で飾万門の内側にある。慶安2年ー寛文7年(1649~67)の侍屋敷新絵図に「新町」。元禄8年(1695年)写の姫路城絵図に「錺万口門内新町」とある。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控に「南町」の名が初めて見え、家数10・地子銀88匁余。寛延4年(1751年)頃の南町絵図には南北の通りの東側に5筆、西側はほとんどが土手で北部に北向きの小さな5筆の屋敷があり、その西端に木戸、東側南に光徳寺がある。同寺は浄土真宗本願寺派、文明年間(1469~67)、飾万津から光源寺とともに城下に移ったというが(大正8年刊「姫路市史」)、末寺帳によると明応元年(1492年)に建立、開基は善准、元和3年(1617年)、順慶の代に寺号免許。第二次世界大戦の罹災後に西阿保に移転。(「兵庫の地名Ⅱ」)
藩政時代「町屋」ブロックの最も南に位置していたので南町と名付けられた。飾磨津門は、中之門とともに重要な門であったが、池田輝政の町割により、門の北側一帯は広面積の空地を確保していた。のち、その地区を内新町と称し、町家を建てさせた。備前門・外京口門内も同様に町割の当初は広域広場を確保していた。天和の頃(1661年)から元禄(1703年)にかけて、城下絵図では内豆腐町となっている(「中田絵図」県立歴史博物館絵図※加納町のあやまりか)。南町と称したのは、それ以降と思われる。
明治22年(1889年)4月1日、市制実施後も引き続き南町の町名を施行した。昭和37年(1962年)、自治行政の適正化によって、直養町・加納町・上白銀町・下白銀町の一部が繰り入れられ、自治組織は拡大された。昭和29年(1954年)、山陽電車の高架化に伴い、昭和28年(1953年)開店の山陽百貨店の二階乗り入れが実現したが、同時に高架下に一大商店街が建設され山陽商店街として繁栄している。昭和32年(1957年)頃、播州路初のスーパーマーケット「銀ビルストアー」の開店をみて、山陽百貨店とともに核となって「南町中央通り商店街」が形成され、南町は戦後のニューショッピング街として脚光を浴びた。
山陽電鉄の開通
外堀を埋め立てた跡地に今の山陽電鉄の前身・神戸姫路電気鉄道が軌道を敷設し開通したのが大正12年(1923年)8月であった。それまで神戸ー明石間を走っていた兵庫電鉄と明石駅前で徒歩連結して、国鉄山陽本線を通じて、姫路を結んだのとは別に、南部海岸を結ぶ電車線が姫路ー神戸を結ぶことになった。昭和に入ってから、宇治川電気会社として両社を合併、姫路~神戸間の直通運転が実現した。昭和8年(1933年)宇治電から分離し、山陽電気鉄道株式会社となる。昭和16年(1941年)7月、日本製鉄広畑工場新設を機に網干線が開通し、播磨沿岸工業地帯の発展に大きく寄与した。戦前の山電姫路駅は赤煉瓦造り二階建の当時としては当時としてはモダンな建物であった。今の市営バス駅前総合待合所の北側で御幸通りに面していた。戦災にあい戦後は西方へ移動し、木造モルタルの駅舎になったが、都市計画による50米大手前道路の完成に先だち、昭和28年(1953年)、山電駅ビルが完工し、同時に山陽百貨店が播州初のターミナルデパートとして開店する。これによって北側の白銀町口が閉鎖され、この方面の自由市場的繁栄が停滞縮小された。反面、山電高架下には豆腐町にかけて大規模な新興商店街が現出し、山陽商店街として駅西地区の商業活動の仲展に寄与することになる。
姫路警察署跡
立町筋を南へ直進したところの今の城陽ビルと、その南側、富士サウナをふくむ一帯で約2500平方㌖の地に明治34年(1901年)3月、それまであった県立姫路病院のあとに姫路警察署が設置された。当時としてはモダンな庁舎であった。警察業務は明治6年(1873年)、はじめて邏卒15人を募集して姫路のまちの治安を取り締まった。明治8年(1875年)、捕亡手15人を置いて、取締範囲を播州一円とし、京口に建物を設け、姫路警察署とした。福中町に分署をおき、明治34年(1901年)、南町に新築移転したのである。当初の管轄は姫路全市および飾磨郡の一部に及んだ。消防機能も兼ねていたので、火の見櫓が庁舎の前に設けられ、半鐘が吊るされ、火事の時には盛んに鳴らし、市民を不安がらせたものであった。また編笠をかぶせられた被疑者が東側の裏側から出入りしたものであった。昭和7年(1932年)、元塩町に移転し(今のNHK姫路局)、戦災も免れ、昭和39年(1964年)、現在地(本町68)に移ったのである。南町の庁舎のあと、内務省土木出張所、職業紹介所(戦後は職業安定所)、公共組合事務所等が設けられた。
光徳寺
真宗本願寺派で文明年間(1468~86)、飾磨津より飾磨津門内南町に移る。法専坊の弟という(兵庫県史第3巻)。戦災にあって焼失し、戦後、西安保に移る。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)