坂元町

姫路城の城下町である姫路町78町のひとつ。姫山の丘陵が南西に向かって下っていたので坂本と称し、その後、坂元と改められたとされる。また池田輝政の町割の際、刀鍛冶集団が書写の坂元から移住したことに由来するという説もある。坂本町と記した地図もある。

姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。福中町の北、本町の西に続く山陽道に沿う町筋。坂本町と記す資料も多い(慶安2年〜寛文7年侍屋敷新絵図など)。町名の由来について「播磨鑑」は慶長9年(1604年)、姫路町替えのとき刀鍛治集団が書写山坂元から移住したことによるとし、姫辺雑記(姫路城内図書館蔵)は『天正ノ頃』としている。姫山の南麓の坂下であったからという説もある(大正8年刊「姫路市史」)。慶長6年(1601年)の町割りで成立。寛永8年(1631年)の那波宗顕譲状(前川家蔵那波文書)に坂本丁と見える。寛永の頃(1624年~1631年)、当町北の中堀を浚渫して泥土を往来に敷いたため通行の障害となり、人馬は本町・坂元町から南の俵町・福中町を経て備前門(のちの福中門)に出るようになった。のちもとの往来に復するために新町を置いたが復しなかった。しかし長崎御用一里継の公役などは当町や本町が勤めた(飾磨府志)。姫路町番上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数65・地子銀1貫211匁余。(兵庫県の地名Ⅱ)


姫山丘陵が南方に突出していたので、比較的これに近いので坂本と称し、その後、坂元と書き改められたとされる(「姫路町名考」橋本政治)。これは河川の氾濫によって、山のふもとの谷口にできた扇状に広がった、ゆるやかな傾斜の地と、自然堤防の造成を指しているものと考えられる。輝政の町割のころよりの町名である。明治22(1889年)年4月、姫路市制実施後も引き続いて「坂元町」として現在に至っている。
坂元町は藩政時代、西国街道の道筋になっていたので、町家として繁栄を続けた。しかし本多忠政の寛永年間(1624年~1631年)、北に接する中堀の浚渫を行い、その泥を坂元町の街道沿いに敷いたので、通行しにくくなり、本町から竪町、俵町を経て、福中町を通り、備前門に出たという(ふるさと城南ものがたり)。

坂元町にあった山陽座
坂元町にあった山陽座

山陽座
明治36年(1903年)頃、万松座という演劇場が設けられ、姫路市内のみならず播磨の各地から観客が集まった。のち山陽座と改名され、付近に飲食店・旅館等が集まり、歓楽街を形成し、坂元町は活気のある町であった。戦後、山陽座は光源寺前町に移転する(ふるさと城南ものがたり)。

憲兵屯所
明治30年(1897年)頃、憲兵隊が屯所が町内に一時、設置された。これは多分、市内の歩兵第十連隊を始め、明治31年(1898年)、編成完了の第十師団関係の軍人が歓楽街の坂元町・魚町等へ休日を利用して遊興に集まるので、風紀を取り締まるためであっただろう(ふるさと城南ものがたり)。

食品卸売市場
大正初年、食品卸売市場が山陽座周辺で開業し、青果7軒・海産4軒が建ち並び、北裏の中堀に板を渡し、「市」を開き、盛況を加えていった。このため隣接の福中内新町方面にまで業者が増え、大正末期には80軒以上にもなり、姫路海産物青果組合が結成され、加盟56軒で、横道組合長・大多荘右衛門副組合長であった。やがて繁栄に伴い、土地が狭くなって、店舗の敷地がなくなってきたことと、生産農家の自主参加による販売等により、昭和に入ってから、当時としては郊外だった久保町・京口の新設市場街へ移転することとなる(木谷敏夫談・ふるさと城南ものがたり)。

坂元稲荷
坂元稲荷

稲荷社
榊原忠次公(1649年〜1665年)の時代には直養稲荷・白川稲荷・城内の御供所稲荷の三稲荷社がありましたが、城内の御供所稲荷がここ坂元町に遷されました。終戦までは福中内新町との町境にあり、境内には樹齢200年以上の巨杉が茂っていました。戦前、坂元町字中島37番地(西国橋東詰)に遷されました。御祭神は二柱あり、御供所稲荷の御祭神は倉稲魂大神で公称:伊山大神と称しました。また坂元町山陽座内に祀られていた稲荷社を、戦後、ここに合祀し、神名を姫城東大神とし、有志の信者によって現在も手厚くお祀りしています(ふるさと城南ものがたり)。

西国橋
船場川に架かっている坂元町通りの西国橋は、廃藩置県による福中門の打ちこわしで、道路整備をしましたが、その時、新たに架せられ、現在に至っています。今の鉄橋は大正13年(1924年)10月のものです(ふるさと城南ものがたり)。