堲岡里。〔生野。大内川。湯川。粟鹿。波自加寸。土は下の下なり。〕堲岡と号くる所以は、昔、大汝命と少比古尼命と相争ひて云ひたまひしく、「堲の荷を担ひて遠く行くことと、下屎らずして遠く行くことと、此の二の事何れか能くせむ」といひたまひき。大汝命曰ひたまはく、「我は下屎らずして行かむと欲ふ」といひたまふ。少比古尼命曰ひたまはく、「我は堲の荷を持ちて前に行かむと欲ふ」といひたまふ。如是く相争ひて行きたまふ。数日を逕て、大汝命云ひたまはく、「我は忍びて行くこと能はず。」といひたまひて、即ち坐て下屎りたまふ。爾時に、少比古尼命、咲ひて曰ひたまはく、「然るに苦し」といひたまひて、亦其の堲を此の岡に擲ちたまひき。故、堲岡と号く。又下屎らたまひし時に、小竹其の屎を弾き上げて衣を行きき。故、波自賀村と号く。その堲と屎と、石に成りて今に亡せず。一家云はく、「品太天皇、巡行でましし時に、宮を此の岡に造りたまひて、勅して云ひたまひしく、『此の土は堲とあり』といひたまひき」といふ。故、堲岡と曰ふ。
【堲岡里】 〔土は下の下です。〕堲岡と名付けられた理由は、昔、大汝命と少比古尼命と相い争って、仰せになるには、「赤土(堲)の荷を担いで遠くに行くことと、下屎らずに遠くに行くこと、どちらが良いか」と。大汝命は、「私は下屎らずに行くことを欲す」と仰せになり、少比古尼命は、
「私は赤土(堲)の荷を持って前に進もうと欲す」と仰せになった。こうして相争っていきました。数日が経って、大汝命が仰せになるには、「私は忍んで行くことができない」と。そして、そのまま座り、屎を下されました。その時に、少比古尼命は笑って、「しかり苦しい」と仰せになり、またその赤土(堲)を、この岡に投げ打たれました。故に堲岡と名付けました。また下屎られた時に、小竹が屎を弾き上げ、衣に付きました。故に波自賀村と名付けました。その赤土(堲)と屎は石と成り、今も無くなっていません。ある人がいうには、「応神天皇が行幸された時に、宮をこの岡にお造りになり、勅して仰せになるには、『この土は堲である」と。故に堲岡といいます。
[解説]「堲岡里」は「和名抄」にある「堲岡郷」で、比定地は神崎郡神河町比延の日吉神社で、里域は現神崎郡神河町(旧大河内町と旧神崎町)と後に但馬国に属する現朝来市生野町を含む一帯です。