姫路中央卸売市場

食品卸売市場
大正初年、食品卸売市場が山陽座周辺で開業し、青果7軒・海産4軒が建ち並び、北裏の中堀に板を渡し、「市」を開き、盛況を加えていった。このため隣接の福中内新町方面にまで業者が増え、大正末期には80軒以上にもなり、姫路海産物青果組合が結成され、加盟56軒で、横道組合長・大多荘右衛門副組合長であった。やがて繁栄に伴い、土地が狭くなって、店舗の敷地がなくなってきたことと、生産農家の自主参加による販売等により、昭和に入ってから、当時としては郊外だった久保町・京口の新設市場街へ移転することとなる(木谷敏夫談)。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)。

隣接の坂元町に、青果・海産等の仲買市場が開設された頃、福中内新町も船場川畔という好立地条件も手伝い、業者が相次いで開業し、飲食店・雑貨等が加わり、大変なにぎわいを見せる。大正の頃のことであった(高尾町大森英三談)。大正元年11月設立の株式会社姫路海産物・青物定市場が設立された(資本金3万円)のに引き続いて、山姫青果ら約10社が相次いで開業している。土地が狭かったこと、新しい流通体系を求めて、昭和初年、久保町および京口方面に業者は拡散し発展していった。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)。

福中内新町・坂元町の食品卸売問屋街が手狭になったことと、近郷生産農家らが既存の荷受問屋による流通経路より離れて新しい流通機構を求めていたこと等の理由で新市場街建設の機運が強まり、昭和3年(1928年)頃、菊川惣吉代議士・蟹江寿一郎県会議員・蟹江惣吉博融銀行頭取等政財界の協力により株式会社姫路中央卸売市場によって埋立整地を完了した久保町に簡易建築による5棟数十戸の簡易店舗が建設された。1戸当たり26㎡から150㎡あった。会社株8株をもったら入居できた。当初は入居する業者が少なかった。会社より1店舗家賃10円でよいから(当時米1升30銭)との要請に応じ、3年ほど遅れ、昭和6年(1931年)、川崎市蔵・木谷敏雄ら27〜8業者が丸青組合を組織して入居した。このほか丸八青果・かねふく青果・丸果・かねごう海産・かね利水産・三和藤らの青果・海産の仲買人、乾物・雑穀・食品等の卸商が軒を並べ、通称中央市場として順調に発展していった。
なお坂元町の横道水産をリーダーとして組合を結成した青果・塩干等の業者は昭和5年(1630年)頃、新設の京口卸市場へ集団移転した。塩干業者によっては姫路駅前方面から南町・豆腐町等に分散して営業していた。戦時中は姫路青果・山市青果等、相寄り、県の指導で兵庫県西部青果統制会社に一本化した。
戦後は地元業者が、いち早く立ち上がり、京口卸市場の業者も久保町へ合流し、隣の忍町へと拡大していく。青果・塩干の全国荷受機関の姫路青果・姫路中央青果・山市青果・姫路農産市場の4社を基軸として、乾物・漬物・菓子・雑貨の関連業者ら約300社が市場街を形成し、国鉄・山陽駅前という地の利も作用し、大変な発展を見せ、播州一円の台所としての機能を発揮した。
昭和32年(1957年)、姫路市営卸売市場が東延末に約5万㎡の土地に設立され、大手荷受業者を始め、大半の業者が移転したため、一時、卸売機能の低下をみたが、地の利を武器に移転業者の空家は埋められて再び繁栄を続けている(大森英一元大同青果専務および木谷敏男卸売市場運営協議会会長談)。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)