射楯兵主神社(播磨国総社)

射楯兵主神社の起源には二つの説があり、一つは欽明天皇25年(562年)6月11日丁卯に伊和大神の御分霊を水尾山に祭ったという説(「播州事蹟覚書」「明和5年丁卯祭祝詞」「安永9年書上明細帳等」)で、もう一つは欽明天皇25年(562年)3月に大己貴一座が宍粟郡伊和郷に鎮座し、

播磨国総社・射楯兵主神社(総社本町) 社伝によると、延暦6年(787)兵主神を小野江(国立病院付近)に移し、のち射楯神を併祀したという。さらに養和元年(1181)、新任の国司が国内の諸社巡拝を簡略化するため、播磨国内の174座を合祀したという。現在地へ移ったのは、元亀元年(1570)より天正6年または9年とされ、中世の赤松氏や江戸期の藩主の崇敬が厚かった。榊原忠次寄進の石造大鳥居は県指定、「三ッ山ひな型」は国指定、また「一ッ山」「三ッ山」の神事は県指定(国選択)となっている。年間神事には1月13~15日の初えびす祭、2月18、19日の厄神祭、6月30日の輪抜け祭、11月13~16日の例大祭(霜月祭)などがある。