景福寺山は姫路城の南西にある小丘で、山の北東面の景福寺公園には展望台があり、姫路城の絶好のビューポイントで、「姫路城十景」の一つとされます。
この山の山上から見る姫路城はさらに美しいのですが、山上に行くには、この山の南麓にある景福寺から登らなければなりませんが、山上には第37代姫路城主・松平明矩の墓所があります。
実はこの山は姫路城にとっての弱点となる山で、明治維新の際には新政府軍がこの山に布陣し砲台を築き、砲撃を加えました。そのため歴代城主は、この山を守るため、この山の麓に菩提寺を建立しました。
景福寺公園への行き方
姫路城から西へ徒歩10分
神姫バス市の橋文学館前下車すぐ
景福寺への行き方
姫路城・姫路駅より徒歩30分
神姫バス元町3丁目下車徒歩5分
この景福寺山は「播磨国風土記」伊和里の条にある「船丘」だといわれていますが、その根拠は不明です。
その後、この山は群鷺山•嵐山(小嵐山)•増位山•西岸山•孝顕山など次々にその名が変わり、寛延2年(1749年)、姫路城主酒井忠恭によって景福寺がこの地に移されてから景福寺山と呼ばれるようになったようです。
「姫路城史」によれば永禄10年(1567年)、黒田官兵衛の父•黒田職隆が隠居した後、小嵐山に寓した《小寺政隆家中記》とあります。天正元年(1573年)、職隆は毛利水軍の動きを見張るため、妻鹿の国府山に城を築いて、そこに移りますが、その間の6年間は景福寺山の麓で暮らしたようです。
ところがその年の8月、三木城主別所長治が姫路に攻め寄せ、増位山隋願寺を焼き打ちにします。そのため隋願寺の僧たちは佐土(御着の東)に逃れ、その後、嵐山に居山したとあり、その後、この山は増位山と呼ばれていたようです。「播磨鑑」には、嵐山は今の名で古は群鷺山と呼んだとあります。それから13年後の天正14年(1586年)、増位山隋願寺が再建され、僧たちは本来の増位山に戻りますが、戦前まではこの山の麓に増位町や増位田、虚無僧町など増位山にゆかりの地名が残っており、江戸時代の地図にも増位山と記されているものが多く見受けられます。
慶長5年(1600年)、池田輝政が播磨国52万石を拝領し姫路城に入った時、家臣たちが輝政に、
「この城の西には忌むべき山(景福寺山・男山)があるので、別の地に城を築かれるのがよろしかろう」
といったのに対して、輝政は
「小さいこというものだ
と述べたといいますが、この2つの山が姫路城の防備にとって急所となることは間違いなく、現実に明治維新には新政府軍(備前池田家)にこの両山を占拠され、砲弾を撃ち込まれています。当然、輝政以降の姫路城主たちも、この弱点に気付いていた筈ですから、男山とこの景福寺山には特別な配慮をしていました。池田輝政はこの山の麓に龍峯寺を建立して、麓の守りを固め、私見ではありますが景福寺山を姫路城の支城となしています。
池田家が姫路を去った後も、この山の南麓に本多家が西岸寺、榊原家が秦叟寺、松平家が孝顕寺という菩提寺を建立したのも、その危機感の表れだと思います。そのため、この山は西岸山とか孝顕山とも呼ばれており、山上には第37代姫路城主・松平明矩の墓所もあります。
寛延2年(1749年)、上野国前橋より酒井忠恭が入部すると、忠恭は酒井家の菩提寺である前橋の龍海院と同じ曹洞宗の寺院である景福寺をこの地に移し、姫路における菩提寺としました。これより後、この山は景福寺山と呼ばれるようになります。酒井家は姫路に転封になったのちも、菩提寺は前橋の龍海院としており歴代城主の墓も、そこにあります。しかし明治維新になって江戸より帰国させられた第43代姫路城主・酒井忠学の正室で将軍・徳川家斉の25女・喜代姫、酒井忠学と喜代姫の娘で第44代姫路城主・酒井忠宝の正室・喜曽姫、そして最後の大老で第46代姫路城主・酒井忠績の正室・婉姫と幼くしてなくなった酒井家の子女たちの墓所は、この寺の境内にあります。