福中内新町

福中門界隈 姫路御城廻侍屋舗新絵図 (慶安2年〜寛文7年)
福中門界隈
姫路御城廻侍屋舗新絵図
(慶安2年〜寛文7年)

池田輝政の町割では各門内は防御の為に空地が設けられていました。本多忠政公の寛政年間(1624〜1631)、中堀の泥土を坂元町の街道筋に敷いたため旅人が難渋し、ここを避けて福中町を通るようになり、それを復すため新町を置いたといいます。この町は新町・備前門内新町と称され、備前門を福中門と改めた際に福中内新町となったものと思われます。大正元年(1912年)4月、南部の一部を西魚町に編入、昭和37年(1962年)、福中町に合併吸収されました。(©芳賀)

姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。福中門(初め備前門)内側で福中町の西に南北に延びる町筋。慶長6年(1601年)の町割で外曲輪の区画内に取り入れられるまでは福中村のうちであった。寛永年間(1624〜44年)、坂元町北の中堀を浚渫し、泥土を山陽道に敷いたため通行の障害になり、人馬は本町・坂元町から南の俵町・福中町を経て備前門にでるようになった。のちに坂元町のもとの往来に復するために内新町を置いたがもとに復しなかった(姫路府志)、ということから当町は寛永以降に成立したといえる。慶安2年〜寛文7年(1649年〜67年)の侍屋敷新絵図に「新町」、元禄8年(1695年)写の姫路城図には「備前橋内新町」とあり、ほかに「備前口門新町」や単に「内新町」とした記録もある。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控えによれば「備前橋内新町」の家数17・地子銀30匁余。文政3年(1820年)前藩主・酒井忠道が備前守に任じられたので備前門を福中門に改称し(姫陽秘鑑)、その後、備前門橋内新町は「福中内新町」と称されるようになったと思われる。「村翁夜話集」には初め備前町といっていたのを文政3年に当町名に改めたとあるが誤り。(兵庫の地名Ⅱ)

藩政時代、町内西端は備前門で、中之門・外京口門と共に重要な御門とまっていた。前橋より入部した酒井忠恭の時(1749年)、門内の道路を改変し、湾曲した区域を備前内新町とした(※古図を見る限り福中町・魚町から備前門に至る道は福中内新町で突き当たり、北に上った後、西に折れて西国街道と合流して備前門に入っており横山先生の勘違いではないか?)。このような例は外京口門内・飾磨津門内でも行われており新町を設けたことが古図によって示されている。酒井忠道は文化3年(1820年)、備前守と改めたことから備前門を福中門と改めさせたとしている(姫路城史)。もっとも嘉永6年(1853年)の城絵図を始め、藩政末期の古地図には備前門とあり、その間の事情ははっきりしない。
廃藩置県によって、他の門と共に、福中門は撤去され、道路は福中町通りより曲行せずにストレートに直行し、船場川に橋が架けられ現在に至っている。藩政時代の橋は現在の福中橋より南の方に架してあった。長さ35㍍・幅15㍍で現在の橋より規模は大きかった。
明治23年(1890年)4月、市制後も福中内新町と公称された。大正元年(1912年)4月、南部の一部を西魚町に編入、昭和37年(1962年)、自治行政の規模適正化から福中町と合併して単一化し、自治組織も福中町自治会となり、昭和59年(1984年)、法制化される。(ふるさと城南ものがたり)

人力車営業
福中内新町は福中町と共に藩政時代は域内往来によって交通上の要所であった。このため旅籠・人足問屋・伝馬所などの施設・業者等が集中していた。明治になってから交通新商売が現出する。人力車である。明治2年(1869年)、東京の和泉要介らが発明した。これは人を乗せ、車夫がひて走る二輪車で、昭和22年(1947年)頃まで見られたものである。明治6年(1873年)頃、福中内新町の橋本清七が人力車営業を開始し、文明開化にふさわしい交通手段として好評を博した。いかにも交通の要所らしいトピックである。間もなく明治12年(1879年)には姫路の人力車は299代に急成長している(藤岡謙二郎地域十号)。(ふるさと城南ものがたり)

食品卸売市場
隣接の坂元町に、青果・海産等の仲買市場が開設された頃、福中内新町も船場川畔という好立地条件も手伝い、業者が相次いで開業し、飲食店・雑貨等が加わり、大変なにぎわいを見せる。大正の頃のことであった(高尾町大森英三談)。大正元年11月設立の株式会社姫路海産物・青物定市場が設立された(資本金3万円)のに引き続いて、山姫青果ら約10社が相次いで開業している。土地が狭かったこと、新しい流通体系を求めて、昭和初年、久保町および京口方面に業者は拡散し発展していった。(ふるさと城南ものがたり)

白鷺館
オールドボーイには懐かしい館名であろう。明治41年(1908年)、十二所前に移転した城南小学校跡に活動写真専門館として白鷺館が登場する。活動写真上映には、映写に共演するクラリネット・バイオリン等の音楽隊と登場人物の代弁とストーリーを物語る活動弁士等によって構成され運営した。とくに弁士の人気によって左右されるなど新興演劇として市民に広く人気を博し繁盛した。戦後はキャピトルの館名で、いちはやく復興した。(ふるさと城南ものがたり)

福中橋の脇にあった道路元標
福中橋の脇にあった道路元標

道路元標
福中橋の東詰に姫路市の道路元標が建てられ、文字通り、姫路の象徴的な中心であったが、昭和7年(1932年)、二号国道開通と共に撤去され、御幸通と二号国道の交叉点東南角に移転する。昭和27年(1952年)、新道路法によって道路元標は置かれなくなり撤去された。