西塩町

姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。竪町の西にあり西端は外曲輪の土手までの東西の町筋。慶長6年(1601年)の町割で成立。塩蔵があったといい元塩町に対して西を冠した(大正8年刊「姫路市史」)。寛永8年(1631年)の那波宗顴譲状(前川家蔵那波文書)に「にししほ丁」とあり慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図に町名が見える。天和2年ー宝永元年(1682〜1704)の姫路図に本福寺と善教寺が見える。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数77・地子銀525匁余。寛延4年(1752年)頃の西塩町絵図には通りの北側に37筆、南側に40筆の屋敷があり、寺院と数軒を除いてほとんど表は5軒未満である。町の西端に「常番」がおり木戸があった。北側に前掲二寺のほか理教院持屋敷がある。
浄土真宗本願寺派善教寺は永正3年(1506年)建立。教薫の開基。本仏・寺号免許は元和9年(1623年)、祐心の代という(末寺帳)。江戸末期の15代住職・結城亮聞は寺内に学問所を開き、学問寺として著名(昭和57年、大寿台に移転)。
浄土真宗本福寺は大永5年(1525年)、の創建で寿慶の開基(姫路紀要)。
真言宗理教院は文禄4年(1595年)の創立で宣襄の開基(姫路紀要)、現存しない。(兵庫の地名Ⅱ)


池田輝政の町割に既にその名がみえる。塩蔵が所在したので総社南の元塩町に対し西塩町と称した。穂積文書によると、榊原政岑公の元文5年(1740年)には西塩町は77軒で城南では当時最も家数の多い町であった。二位は坂元町・西魚町の64軒となっていた。明治22年(1889年)4月1日、市制実施後も引き続いて、藩政時代の町名を施行し、今日に至っている。戦前は魚町料飲街の裏店(うらだな)として、芸妓置屋・待合等があるほかは静かな町であった。戦後は魚町歓楽街が西塩町へと浸透し、高層レジャービルが相次いで建てられ、活気ある町として息づいている。

善教寺
永正3年(1506年)創立の由緒ある真宗寺院。藩政時代末期には住職・結城亮聞が寺内に塾を開き、学者として世評を高め、播磨はもとより但馬・丹波・讃岐等より人材が集まり学問寺として名声を博した。戦後の住職・結城令聞は東京大学名誉教授・京都女子大学学長として、また仏教哲学者として国際的にも著名な学者である。戦前、善教寺の白壁に武者窓を取り付け、格式ある長屋門を構え、風格のある寺院建築であった。戦災によって焼失したが寺は再建した。

本福寺
大永5年(1526年)創立の真宗寺院。善教寺の東方約200㍍のところに立地していた。室町時代より古い寺院であったが、戦災にあい焼失した。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)