名古山

名古山は姫路城の西北約1㌖にある小丘で、山全体が墓地公園(名古山霊園)となっており、お彼岸やお盆には墓参に訪れる市民で賑わいます。山上には高さ38㍍の仏舎利塔があり、塔内にはインドのネール首相から贈られた仏舎利を納めた仏舎利殿や釈迦三尊、十大弟子の立像などが安置されており異国情緒が漂います。苑内は4月上旬には桜、中旬からはツツジが見頃となります。
また名古山は知る人ぞ知る姫路城のビューポイントで、2月後半と10月中旬、姫路城の背後から朝日が昇る様子を望むことができます。

実は名古山霊園のある小山全体の名前は「栗林山」といい、西の峰を「名古山」、中の峰を「子鞠山」、東の峰を「御前山」といいますが、今は一般的に「名古山」と称します。
この「名古山」は「播磨国風土記」の飾磨郡伊和里の条にある「波丘」だといわれています。確かにこの山からは弥生時代の住居跡や古墳などが発見されており、「名古山遺跡」と呼ばれており、太古から人々が暮らしていたことがわかります。また「名古山遺跡」からは銅鐸の石製鋳型片が見つかっており、この山で銅鐸が製造されていたと考えられます。
そして中世、この山には那古七郎頼三という者が那古山構居という砦を築いたといたとありますが、この者は浪人だったといいます【播磨鑑】。
明治時代、名古山周辺は軍用地とされ、山上には姫路陸軍墓地(栗林山陸軍墓地)となり、戊辰の役以来の戦没殉難の英霊11万1千余柱が葬られています。そしてこの墓地には日本人だけではなく、第一次世界大戦の際の青島攻略戦において俘虜となったドイツ軍兵士の墓もあります。
戦後、初の姫路市長となった石見元秀は、空襲によって焼野原となった城下町の整備のため、城下にあった墓地を陸軍用地であった名古山に集約しようと計画し、昭和28年(1953年)、名古山霊園を開苑します。そしてその翌年の昭和29年(1954年)、インドのネール首相より、恒久の平和を祈るために仏舎利が贈与され、昭和35年(1960年)、山上にその仏舎利を納めるための高さ37㍍の仏舎利塔が完成しました。