姫路藩勤王志士終焉之地碑

幕末、多くの姫路藩士が勤王の志士として活躍したが、文久3年(1863年)、八月十八日の政変が起こると、姫路藩主酒井忠績(ただしげ)は姫路藩の勤王派の取り調べを開始し、翌元治元年(1864年)12月、多くの勤王派の藩士たちがこの藩用監獄に投獄され、うち2人が斬首・6人が切腹を命じられ、俗に甲子(かっし)の獄と称す。明治時代になるとこれら勤王の志士たちは新政府によって賞されることとなり、大正5年(1916年)に藩用監獄跡の武徳殿の脇に顕彰碑が建立されました。しかし敗戦後、アメリカ進駐軍の意向を怖れた有志によってこの顕彰碑は撤去され、護国神社の境内に置かれていましたが、蟹江宗次郎姫路郷友会会長ら有志によって昭和43年(1968年)、大蔵前公園に再建されました。(©芳賀一也)

志士の碑(魚町) 江戸末期、急進的な尊王攘夷活動家の姫路藩士河合宗兵衛(47才)、行動を共にし脱藩した養子河合伝十郎(24才)と江坂栄次郎(23才)ら8名は、元治元年(1864)12月処刑された。大正5年(1916)もと藩の獄舎跡のこの地に記念碑が建てられ、大戦後に撤去され、昭和43年復元。(『城南地区』をたずねて』)


幕末、元治元年(1864年)、尊皇攘夷派の姫路藩士・河合宗元ら同士8名が、ここで獄死し、世に甲子の獄(かっしのごく)と称した。現在、大藏前公園に記念碑が建てられている。敗戦後、アメリカ進駐軍の意向で、一時、護国神社の境内に解体放置されたが、蟹江宗次郎姫路郷友会会長ら有志によって昭和43年(1968年)、現在地に再建された。大蔵前公園は昭和38年(1963年)、外堀を埋めて土地造成を行い開設された児童公園である。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)