西魚町筋の西端に藩用監獄が古くからあり、籠屋・牢舎あるいは揚屋(まがりや)とも称した。この施設と関連して、ある時期には隣接の船場川の中州を人切場と称し、処刑場になっていたこともある。
幕末、元治元年(1864年)、尊皇攘夷派の姫路藩士・河合宗元ら同士8名が、ここで獄死し、世に甲子の獄(かっしのごく)と称した。現在、大倉前公園に記念碑が建てられている。敗戦後、アメリカ進駐軍の意向で、一時、護国神社の境内に解体放置されたが、蟹江宗次郎姫路郷友会会長ら有志によって昭和43年(1968年)、現在地に再建された。大蔵前公園は昭和38年(1963年)、外堀を埋めて土地造成を行い開設された児童公園である。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図に町名が見え、町の西部に光明寺・慈恩寺・庚申寺が、さらに西の外堀近くに籠屋(※牢屋)が記されている。寛文7年ー天和2年(1667〜82)の姫路城下図には籠屋(※牢屋)の前(東)に「人切場」とある。(「兵庫の地名Ⅱ」)
憲兵隊屯所
藩用監獄跡地に明治29年(1896年)1月16日、旧軍隊の治安警察であった憲兵隊の屯所が設置された。これは旧城内に歩兵第十聨隊が駐屯していたが明治29年(1896年)11月、開設予定の騎兵・野砲兵第十聨隊、輜重第十大隊および一部結成の歩兵第三十九聨隊に備え、歓楽街が近くにあり遊休官有地の活用等の理由で設置したと見られる。憲兵隊は明治31年(1898年)、第十師団の設置と共に、明治33年(1900年)、光源寺前に移り、姫路憲兵隊と改称した。本部を姫路に置き、姫路・神戸・鳥取・舞鶴・福知山の5カ所に分隊を配置した。憲兵隊は師団から独立した存在で、陸軍大臣・憲兵司令部の指揮系統に属し、戦前の最高権力の一つであった。戦前の権力機構を調べるうえに有力な資料でもある。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
武徳殿
明治37〜38年(1904〜1905年)の日露戦争のあと、武道奨励から武徳殿設置の世論が盛り上がり、当時の姫路警察署長海江田権蔵ら有力者を中心に1万2千円の浄財により藩用監獄趾に明治40年(1907年)7月起工、半年余で完成した(1月1日落成)。木曽御料林からの払い下げで総桧造りであった。階下は柔剣道の道場で周囲は一段と高く観覧席になっていた。二階は百数十畳の大広間で催し場となり、商店の陳列会・展示場・講演会等に使用され、昭和6年(1931年)に現在の市民会館の前身である市公会堂が建てられるまでは広く市民に利用され交流の場ともなった。
武徳殿の南側は姫路城の外堀であったが(現在の大蔵前公園)、その土塁を登って武徳殿の北側にあった城南小学校へ毎日通ったものだと古老は懐かしむ(白銀町網川たみ談)。武徳殿と隣接して昭和8年(1933年)より常設消防署と火見櫓が設けられていた。昭和20年(1945年)7月の大空襲で焼失し、戦前の人々に親しまれた建物は記憶の彼方へ消え去ったのである。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
大正の米騒動
第一次世界大戦中に物価値上げが甚だしくなり、米は特に顕著で大正4年(1915年)、米1.5㎏(1升)12銭が、大正7年(1918年)には60銭まで上昇した(神戸又新日報大正8年8月9日付)。同年8月9日、大塩町で600戸の主婦たちが村役場に押しかけ米の値下げを要求した。翌10日、飾磨町の町民が米屋に押しかけ、1.5㎏を38銭で売り未然に免れた。8月13日夜、南畝町の中吉米店・下寺町の植原米店・福本町の萩田米店らが暴徒によって襲撃された。ちなみに当時、小学校教員の平均給与27円、警察官の初任給14円(「兵庫史探訪」)で、いかに暴騰していたかがうかがわれる。
この事態を憂慮した市民の有産階級の有志は「米の廉売会」を武徳殿に設けた。その販売所には市民が列をなした。1升30銭、一人3升を限度とし、5日間続けた(神戸又新日報大正8年8月16日付)、世に大正の米騒動として伝えられている真相である。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)