魚町

昭和36年(1961年)よりの自治行政の規模適正化により西魚町・恵美酒町および福中内新町・西魚町の一部を含めて、公称:魚町とし自治会も単一化した。昭和59年(1985年)9月22日、復興土地区画整理事業により法制化された。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)

西魚町
姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。恵美酒町の西に続く東西の町筋で北は俵町・福中町。慶長6年(1601年)の町割で成立。寛永8年(1631年)の(「那波宗顕譲状」前川家那波文書)に「にしうほ丁」とある。慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図に町名が見え、町の西部に光明寺・慈恩寺・庚申寺が、さらに西の外堀近くに籠屋(※牢屋)が記されている。寛文7年ー天和2年(1667〜82)の姫路城下図には籠屋(※牢屋)の前(東)に「人切場」とある。この絵図で光明寺が西塩町に恵美酒町がないのは誤りか?天和2年ー宝永元年(1682〜1704)の姫路図では庚申寺が西福寺となり、籠屋あたりは内蔵になっている。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数64・地子銀734匁余。元治元年(1864年)、尊王攘夷派の藩臣・河合宗元ら8名が当町の獄舎で斬首の刑や自刃の命を受けた(姫路城史)。これを甲子の獄という。
絵図帳にみえる寺のうち浄土宗光明寺は慶長の町割の時、飾万津から移転。開基は念誉。同宗西福寺は初め惣社(射楯兵主神社)付近にあったが、天正(1573〜92)頃、当地に円誉生西が開基し、慶長年間、池田輝政が本堂を建立(播磨鑑)。本尊は帝釈天である庚申天も祀っていたので、第二次世界大戦までは「庚申さん」、庚申寺とも称されたが現存しない。臨済宗妙心寺派慈恩寺はもと赤穂郡栗栖(現:赤穂市)にあり、赤松家が代々帰依した寺。赤松満祐のとき城の北西にあたる西城戸に移したが、慶長の町割で当地に建立(「播磨府中めぐり拾遺」智恵袋)。第二次世界大戦で全焼し、山之井町に移った。(「兵庫の地名Ⅱ」)

池田輝政の町割のとき、既に西魚町の名は見えていた(木多文化振興会蔵城下図)。多分、町づくりの時、生魚業者の集団があり、総社の東隣りにある東魚町に対し、西を冠し西魚町と称したのであろう。魚町・魚屋町・肴町等の町名は全国の城下町に多く52ヶ所と報告されている(「日本地名辞典」人物往来社・「旧城下町の地名について」矢守一彦)。昭和36年(1961年)よりの自治行政の規模適正化により西魚町・恵美酒町および福中内新町・西魚町の一部を含めて、公称:魚町とし自治会も単一化した。昭和59年(1985年)9月22日、復興土地区画整理事業により法制化された。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)

料飲街
西魚町の料飲街としての歴史はかなり古かったようである。しかし裏付ける資料が乏しいが、次のような史実がある。名経世家河合寸翁(1767〜1841)によって西魚町海老屋権六の料亭を藩用金で天保元年(1830年)に新築し、大坂・江戸の藩御用の金主の接待所にあてている。
明治7年(1874年)、大阪鎮台の二個中隊の姫路駐在が決定されたのに伴い、風紀対策上、遊郭の設置が唱えられるようになり、一時、西魚町がその候補地となったが、地元の反対により野里梅ヶ枝町に決定したという一幕もあった。
戦前は芸妓・娼妓のいるまちとして花柳街と呼ばれていた。明治時代は芸者の養成と斡旋をする検番が竹鹿・井上・中店の三ヶ所にあった。明治の末期には合併して南陽社一本になった、大正初年、芸妓・舞妓の質的向上が養成され、城南小学校の校区外出身の者を対象として「本町女紅場」が設けられ、尋常小学校の教科を教え、併せて茶の湯・活花および裁縫等も教えたが、大正6年(1917年)に廃止された。
その後、竪町に新検番「い店」ができ、まもなく東検番と称し、昭和初期になって姫路検番となる。大正2年(1913年)、芸者数137人・舞妓17人の在籍であった。戦後、姫路・白鷺の二検番は昭和33年(1958年)の買収防止法による赤線廃止を機に1本となり、昭和35年(1960年)頃には芸者78人・舞妓1人に減少して時代の波を受けていく。
その後、社会の洋風趣向の浸透によりバー・キャバレー等の社交形態の多様化により、芸者を基調とした和風趣向は衰退し、しっとりした粋な雰囲気を持った魚町も、大きく変貌していく。しかし夜の歓楽街として、播州一円にその顧客をもつ魚町は新しい風潮を貪欲に呑み込んで関西有数のレジャー産業地域としての立場を固めつつある。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)