大津町は行政地区の適正化により大津区天満・長松・西土井・勝原区山戸の一部を区画整理し、 1968年(昭和43)に誕生した新しい町です。大津区天満・長松は江戸時代の天満村・長松村で幕末には讃伎国丸亀藩領、大津区西土井・勝原区山戸は西土井村・山戸村で幕末には幕府領で、1889年(明治22年)、町村制施行により天満村・長松村・西土井村は大津村天満・長松・西土井、山戸村は勝原村山戸となります。それまで大津町付近は蓮池と田んぼばかりの田園地帯でしたが、1939年(昭和14)に日本製鉄広畑製鉄所が操業を開始すると従業員用の住宅が必要となり、1943年(昭和18)にこの区域が住宅用地として買収されましたが、戦況が悪化したため住宅の建設は戦後となりました。1946年(昭和21)、ラモート合併により勝原村・大津村は姫路市に吸収合併されて姫路市勝原区・大津区となります。日本製鉄は進駐軍によって解体されたものの、 1950年(昭和25)、 広畑製鉄所の経営は富士製鉄に引き継がれます。朝鮮戦争の特需により広畑製鉄所の設備は拡張されると、1957年(昭和32年)頃からはアパート形式の住宅が建ち始め、ニュータウンとして賑わいはじめ、1968年(昭和43年)11月に区画整理が行われ大津町となります。しかし昭和40年代から鉄鋼需要の伸びが鈍化し、生産の適正化のため、1970年(昭和45)に富士製鉄は八幡製鉄と合併し新日本製鉄となります。その後も新日本製鉄は合理化を進め、1993年(平成5)には全高炉の操業が停止します。1997年(平成9)、姫路市は大津勝原地区を新業務拠点地区と位置づけ、2004年(平成16)、新日本製鐵(現・新日鐵住金)広畑製鐵所社宅跡地に「イオン姫路大津ショッピングセンター」が開業し、2008年(平成20)、JRはりま勝原駅が開業します。2011年(平成23)5月、戸建住宅地「リビオ姫路大津 ブルームガーデンのぞみ野」の分譲が開始されました。
大津茂校区
1617年(元和2)
6月 姫路城主・池田利隆(33才)、死去。利隆の嫡男・幸隆(8才・のちの光政)、姫路城主となる
1617年(元和3)
3月 姫路城主・池田幸隆(9才)、幼少のため鳥取に転封となる
7月 桑名城主・本多忠政(43才)、播磨国15万石を賜い姫路城主となる
9月 上総大多喜城主・本多政朝(19才)、播磨国内5万石を賜い龍野藩を立藩。この時、揖東郡天満村・田井村・長松村・西土井村・山戸村・宮田村、龍野藩領となる
1626年(寛永3)
5月 姫路藩主・本多忠政の嫡子・本多忠刻( 31才)、死去
龍野藩主・本多政朝(28才)、忠政の嫡子となる
9月 小笠原長次(13才)、龍野5万石と千姫の化粧料1万石を賜り、龍野藩主となる。
1627年(寛永4)
3月 本多政朝(29才)、姫路に移り、代わって小笠原長次(14才)、龍野に入部。この年、揖東郡天満村・田井村・長松村、幕府領となる
1628年(寛永5)
この年、揖東郡天満村・田井村・長松村、再び龍野藩領となる
1631年(寛永8)
8月 姫路藩主・本多忠政(57才)、死去。
閏10月 本多忠政の次男・政朝(33才)、姫路藩主となる。
1632年(寛永9)
11月 龍野藩主・小笠原長次(18才)、豊前中津へ転封となる。これにより龍野6万石は幕府領となる
1633年(寛永10)
3月 大垣藩主・岡部宣勝(36才)、5万3千石を賜り、播磨龍野藩へ移封。西土井村・山戸村・宮田村、再び龍野藩領となる
1635年(寛永12)
3月 龍野藩主・岡部宣勝(39才)、高槻城加番となる
1636年(寛永13)
3月 龍野藩主・岡部宣勝(40才)、高槻藩に転封。西土井村・山戸村・宮田村、幕府領となる
1637年(寛永14)
10月 島原の乱勃発
この年、出雲国松江藩主・京極高和(19才)、龍野藩主となり、西土井村・山戸村・宮田村、龍野藩領となる
1658年(万治元)
この年 龍野藩主・京極高和(40才)、讃岐丸亀5万石と播磨揖保郡網干1万石を賜り、丸亀藩主となる。これによって天満村・田井村・長松村、讃岐丸亀藩領となる。そして龍野藩4万石は幕府領となり、西土井村・宮田村、幕府領となる
1672年(寛文12)
この年 脇坂安政(40才)、5万3千石を賜り、龍野藩主となり、宮田村、龍野藩領となる
1744年(延亨元)
この年 西土井村、大坂城代・出羽山形藩堀田氏領となる
1746年(延亨3)
この年 西土井村、幕府領となる
1866年(慶応2)
6月 龍野藩主・脇坂安斐、病気のため第二次長州征伐に参戦せず
1868年(慶応4)
1月 龍野藩主・脇坂安斐、病気のため第二次長州征伐に参戦せず
1875年(明治8)
西土井村・天満村・勘兵衛村を合わせ天栖小学校を創立
平松村・長松村・吉美村・大江島村を合わせ津川小学校を創立
1884年(明治17)
天栖・津川両小学校を合わせ大津小学校を創立
1889年(明治22)
4月 町村制施行により揖東郡旭陽村が発足し田井村はその一部となる
揖東郡勝原村が発足し宮田村・山戸村はその一部となる
揖東郡大津村が発足し天満村・長松村・西土井村はその一部となる
1891年(明治24)
5月 天津簡易小学校を廃し、大津尋常小学校を設ける
1896年(明治29)
4月 揖東郡と揖西郡が合併して揖保郡となる
1912年(明治35)
大津尋常小学校に高等科併設
1937年(昭和12)
広畑に製鉄所ができる
1943年(昭和18)
12月 製鉄所の社宅用地として大津村天満・長松・西土井・勝原村山戸の各一部が買収される
1946年(昭和21)
3月 揖保郡勝原村・網干村・大津村、飾磨市・白浜町・広畑町・余部村とともに姫路市に編入し、姫路市勝原区・大津区・網干区となる
1957年(昭和32)
アパート形式の建物が建ち始める
1962年(昭和37)
富士製鉄広畑製鉄所の「勝原社宅」が立ち始める
1968年(昭和43)
11月 行政地区の適正化により製鉄所の社宅用地が大津区大津町となる。勝原区宮田・山戸・大津区長松の一部が区画整理され、勝原区勝原町となる
1973年(昭和48)
オイルショックがおこる
1974年(昭和49)
4月 姫路市立大津小学校より分離し、大津茂小学校が開校
1987年(昭和53)
4月 姫路市立大津中学校が開校
1993年(平成5)
「勝原社宅」が無人となる
1995年(平成7)
4月 姫路市立大津茂公民館が開館
安富町
安富町略史
天正8年(1580年)
三森構居、長水山城とともに落城。
慶長5年(1600年)
池田輝政、関ヶ原の戦いの功により播磨国52万石を拝領。安志村以下12ヶ村、姫路藩領となる
慶長8年(1603年)
池田輝政の嫡男•忠継、備前岡山28万石を拝領。
慶長18年(1613年)
姫路藩主•池田輝政、死去。嫡男•利隆、第2代姫路藩主となる。池田利隆、父の遺領のうち西播磨3郡10万石を弟•忠継に分与し、安志村以下12ヶ村、備前岡山藩領となる。
元和元年(1615年)
備前岡山藩主•池田忠継、死去。弟•忠雄、岡山藩主となる。池田輝政の正妻•督姫(良正院)、死去。池田忠雄、母•良正院の遺料10万石を弟たちに分与して池田忠雄の弟•池田輝澄、山崎藩(3万8千石)を立藩。安志村以下12ヶ村、山崎藩領となる。池田忠雄の弟•池田政綱が赤穂藩(3万5千石)、輝興が平福藩(2万5千石)を立藩。
寛永8年(1631年)
赤穂藩主•池田政綱、死去。平福藩主•池田輝興。赤穂藩主となる。山崎藩主•池田輝澄、弟•輝興の平福領を加増され、6万8千石となる。
寛永17年(1640年)
山崎藩内で御家騒動が起こり、池田輝澄、改易となり、岸和田藩主•松平康映、山崎藩主(5万石)となる。
慶安2年(1649年)
山崎藩主•松平康映、石見浜田に転封。池田利隆の次男で児島藩主•池田恒元、山崎藩主となる。
寛文11年(1671年)
山崎藩主•池田恒元、死去。嫡男•恒行、山崎藩主となる。
延宝6年(1678年)
山崎藩主•池田恒行、夭逝。山崎藩(3万石)、改易。
延宝7年(1679年)
本多政勝の三男•本多忠英、山崎藩主(1万石)となる。安志村以下12ヶ村、幕府領となる。
元禄10年(1697年)
津山新田藩主・森長俊、佐用郡・揖西郡・宍粟郡内の一部を領有し三日月藩を立藩。長野村、三日月藩領となる。
宝永2年(1705年)
三森村•名坂村•末広村•栃原村、幕府領林田藩預地となる
宝永7年(1710年)
皆河村、幕府領林田藩預地となる
正徳3年(1713年)
森村•名坂村、幕府領となる。塩野村•植木野村•下村•狭戸村•三坂村、大阪城代内藤弌信領となる。
正徳4年(1714年)
末広村•栃原村•皆河村、幕府領となる
享保元年(1716年)
豊前中津藩主•小笠原長邕、夭逝し、無獅のため改易。小笠原長邕の弟•長興、藩祖の功を考慮し、安志藩(1万石)を立藩。安志村•三森村•名坂村•末広村•栃原村、安志藩領となる。
享保6年(1721年)
塩野村•植木野村•下村•狭戸村•三坂村•皆河村、幕府領姫路藩預地となる。
寛保元年(1741年)
塩野村•植木野村•下村•狭戸村•三坂村、幕府領となる。
延享元年(1744年)
塩野村•植木野村•下村•狭戸村•三坂村、大阪城代堀田正亮領となる。
延享2年(1745年)
皆河村、幕府領三日月藩預地となる。
延享3年(1744年)
塩野村•植木野村•下村•狭戸村•三坂村、幕府領三日月藩預地となる。
延享4年(1747年)
皆河村、幕府領となる。
宝暦2年(1752年)
塩野村•植木野村•下村•狭戸村•三坂村、大阪城代松平輝高領となる。
宝暦13年(1763年)
塩野村•植木野村•下村•狭戸村•三坂村、幕府領となる。
明和元年(1764年)
塩野村•植木野村•下村•狭戸村•三坂村•皆河村、幕府領三日月藩預地となる。
明和6年(1769年)
尼崎藩主•松平忠告の時に、幕府による大規模な領地替えが行われる。塩野村•植木野村•下村•狭戸村•三坂村、尼崎藩領となる。
明治22年(1889年)
名坂村•三森村•安志村•長野村•塩野村•植木野村•狭戸村•三坂村•瀬川村(下村)が合併し、安師村が発足。栃原村•皆河村•末広村が合併し、富栖村が発足。
昭和31年(1956年)
安師村と富栖村が合併し、安富町が発足。
平成18年(2006年)
3月 安富町が姫路に編入される
高尾町
この地域は比較的高台状で北隣の久保町の低湿窪地に続いていた。高畑ともいい、綿・桑畑等が多かった。これは乱流した河川によって扇状に運搬された土砂・岩くずが厚く堆積する。この堆積し傾斜した高い土地は水利も悪く畑地化するもので、高尾町付近の地形もこのような扇状的な形態であった。
明治45年(1912年)4月、国衙村大字豊澤村の姫路編入にともない、字高尾・桶ノ本および大将軍の一部をもって1ヶ町とし高尾町と呼称した。昭和36年(1961年)の自治行政の適正化から南畝町の一部繰入れ、久保町への一部移管が行われ、昭和59年(1974年)、法制化する。高尾町自治会を組織している。
明治37年(1904年)〜38年(1905年)の日露戦争の頃はわずか1戸しかなかったが、明治43年(1910年)、人工温泉ながら高尾温泉が設立された。これは白国の増位温泉に対抗して経営されたのであるが、人気を呼び好評を博したが、戦後は一般浴場となる。大正7年(1918年)、姫路製紐・日本製氷等の工場が相次いで設立されてからは工場地帯として活気を帯びてくるのである。
戦後は都市計画道路の導入と昭和40年頃の日本住宅公団による大規模マンションの建設、製材、製紐等工場の撤退等によって、住宅・商業混合地域として変貌して行った。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)
高尾マンション
久保町
藩政時代には地形的にも低湿地で、地名も福中村字落窪となっていた。明治8年(1875年)、忍町・豆腐町・南畝村等6ヶ村が合併して豊澤村となったので、豊澤村は北条村・南条村・庄田村ら3ヶ村と合併して国衙村大字豊澤となる。
明治45年(1912年)4月、姫路合併に伴い久保町となる。当時は豆腐町の町裏として僅かの民家しかなかった。
大正3年(1914年)、十二所神社南側の外堀埋立が行われた頃より低湿の久保町の埋め立てが漸次続けられ、大正11年(1922年)頃からは平坦な土地になる。
戦災によって灰燼となったが、戦後の復興は食生活の確保を基盤としたため戦前の食品卸売市場街としての久保町は、いち早く焼跡より再起し、経済再建を果たした。昭和37年(1962年)、自治行政の規模適正化から忍町・高尾町の一部が久保町に移管され、久保町の一部が豆腐町に移管され、昭和59年(1984年)に法制化する。自治組織は久保町自治会である。
卸売市場街
福中内新町・坂元町の食品卸売問屋街が手狭になったことと、近郷生産農家らが既存の荷受問屋による流通経路より離れて新しい流通機構を求めていたこと等の理由で新市場街建設の機運が強まり、昭和3年(1928年)頃、菊川惣吉代議士・蟹江寿一郎県会議員・蟹江惣吉博融銀行頭取等政財界の協力により株式会社姫路中央卸売市場によって埋立整地を完了した久保町に簡易建築による5棟数十戸の簡易店舗が建設された。1戸当たり26㎡から150㎡あった。会社株8株をもったら入居できた。当初は入居する業者が少なかった。会社より1店舗家賃10円でよいから(当時米1升30銭)との要請に応じ、3年ほど遅れ、昭和6年(1931年)、川崎市蔵・木谷敏雄ら27〜8業者が丸青組合を組織して入居した。このほか丸八青果・かねふく青果・丸果・かねごう海産・かね利水産・三和藤らの青果・海産の仲買人、乾物・雑穀・食品等の卸商が軒を並べ、通称中央市場として順調に発展していった。
なお坂元町の横道水産をリーダーとして組合を結成した青果・塩干等の業者は昭和5年(1630年)頃、新設の京口卸市場へ集団移転した。塩干業者によっては姫路駅前方面から南町・豆腐町等に分散して営業していた。戦時中は姫路青果・山市青果等、相寄り、県の指導で兵庫県西部青果統制会社に一本化した。
戦後は地元業者が、いち早く立ち上がり、京口卸市場の業者も久保町へ合流し、隣の忍町へと拡大していく。青果・塩干の全国荷受機関の姫路青果・姫路中央青果・山市青果・姫路農産市場の4社を基軸として、乾物・漬物・菓子・雑貨の関連業者ら約300社が市場街を形成し、国鉄・山陽駅前という地の利も作用し、大変な発展を見せ、播州一円の台所としての機能を発揮した。
昭和32年(1957年)、姫路市営卸売市場が東延末に約5万㎡の土地に設立され、大手荷受業者を始め、大半の業者が移転したため、一時、卸売機能の低下をみたが、地の利を武器に移転業者の空家は埋められて再び繁栄を続けている(大森英一元大同青果専務および木谷敏男卸売市場運営協議会会長談)。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)
関西電力
関西電力
姫路電燈株式会社が明治30年(1897年)、大蔵前町に創立した。姫路市内の電燈用として電力60キロワットを供給したのが始まりで、明治43年(1910年)、姫路水力発電株式会社と改称した。水力発電によって中播・西播にも供給するようになる。
大正7年(1918年)8月の米騒動のとき、同社の職工・人夫100余名が米価の高騰を主な理由として三割方の値上げを会社側に要求してストライキを行っている(「神戸又新日報」大正7年8月)。
大正15年(1926年)、同社は中国合同電気株式会社と合併して同社姫路支社となる。昭和17年(1942年)、国策に沿って関西電力株式会社姫路支社となり目まぐるしく変転しながら発展を遂げていった。
(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)
靄楽園
戦前、この地にはあいらく園という料理旅館がありました。この旅館は元は酒井家家老・本多意気揚の下屋敷で隣接する船場川から水を引いて、池泉・名石を配した風格の高い邸宅であった。明治時代の中頃、福中町の豪商・あが久呉服店の矢内久七が買収し、その後、ひさご茶屋が継承し、料理旅館として不動の地位を築きました。ひさご茶屋はのちにまねき食品となり、ここの板前はのちに割烹料亭「松びし」を開業します。©芳賀一也 Continue reading 靄楽園
駅前町
明治初年までは宿村の一部であり、しばしば河川の氾濫によって苦しめられた田園地域で人家も殆どなかった。明治8年(1875年)、芝原村・忍町・南畝村も六ヶ村が合併して、豊澤村となり、明治22年(1889年)、市町村自治制施行に際し、国衙村となった。大正元年(1912年)10月1日、姫路市に編入されたのに伴って駅前町と命名した。
明治21年(1888年)12月23日、山陽鉄道株式会社によって、姫路駅が国衙村豊澤に開設され、姫路~兵庫間が開通した。開通の時の旅客運賃は姫路~加古川間10銭、明石22銭、兵庫34銭と(明治18年米1升6.6銭)当時としては高額であった(田中久文「姫路鉄道百題」)。その後、明治28年(1895年)に飾磨間、明治34年(1901年)に下関および播但線新井まで開通し、姫路駅は陸上交通の地位を高めた。昭和11年(1936年)、神姫線の開通、昭和47年(1972年)、山陽新幹線の開通とその重要性を高めていく。
神姫バス
宇治川電鉄(昭和8年6月に山陽電鉄と改名)によって、昭和2年(1927年)8月8日、創立。加古川を営業拠点とし、神戸~姫路間を運行していた。昭和4年(1929年)、姫路市駅前町202番地に本社を加古川より移転して置く。逐次、中小自動車会社を吸収合併した。昭和8年(1933年)、明石市へ本社を移転し、播州一円の交通網を掌握した。その後、貸切タクシー・貨物等も取り扱うようになった。
昭和18年(1943年)5月、再び本社を姫路市駅前町に移す。このとき自動車保有571両で全国有数規模に成長した。これより先、昭和16年(1941年)9月1日、戦時下の対応でガソリン車の使用を禁止され、木炭・コークス・薪等をガス化して動かす代燃車が登場し、昭和27年(1947年)7月1日、ガソリン統制令解除まで続いた。
戦後は戦災・物資不足・インフレ等の苦難を乗りこえ、順次発展を遂げ、昭和53年(1978年)現在保有台数、一般乗合664台・貸切145台・計809台。延べ走行3316万余㌖・従業員2180名の企業に成長し、不動産・自動車部品販売・保険・広告・レジャー・タクシー等企業グループを結成して活動している(「神姫バス50年史」昭和54年刊)。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)
神姫バス
神姫バス
宇治川電鉄(昭和8年6月に山陽電鉄と改名)によって、昭和2年(1927年)8月8日、創立。加古川を営業拠点とし、神戸~姫路間を運行していた。昭和4年(1929年)、姫路市駅前町202番地に本社を加古川より移転して置く。逐次、中小自動車会社を吸収合併した。昭和8年(1933年)、明石市へ本社を移転し、播州一円の交通網を掌握した。その後、貸切タクシー・貨物等も取り扱うようになった。
昭和18年(1943年)5月、再び本社を姫路市駅前町に移す。このとき自動車保有571両で全国有数規模に成長した。これより先、昭和16年(1941年)9月1日、戦時下の対応でガソリン車の使用を禁止され、木炭・コークス・薪等をガス化して動かす代燃車が登場し、昭和27年(1947年)7月1日、ガソリン統制令解除まで続いた。
戦後は戦災・物資不足・インフレ等の苦難を乗りこえ、順次発展を遂げ、昭和53年(1978年)現在保有台数、一般乗合664台・貸切145台・計809台。延べ走行3316万余㌖・従業員2180名の企業に成長し、不動産・自動車部品販売・保険・広告・レジャー・タクシー等企業グループを結成して活動している(「神姫バス50年史」昭和54年刊)。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)
豆腐町
飾東郡に所属。姫路城南西の外堀のすぐ南。飾磨門(飾磨口)の南に位置する南北の町筋。外豆腐町として飾万津町20町に含まれ、飾万津の町奉行の管轄とされていた。中世は南畝村のうちで、町の形勢過程は谷町と同じ。慶安2年ー寛文7年(1649~67)の姫路城下侍屋敷新図には外堀の南は描かれていないが、飾磨門の北に内豆腐町がみえることから、外豆腐町の存在を推測することができる。元禄8年(1695年)写の姫路城図には「とうふ丁」がみえるが、元禄17年(1704年)の姫路城城下町数飾万津町数覚(伊藤家文書)に外豆腐町・内豆腐町が記される。元文5年(1740年)の外豆腐町の地子銀高は281匁余で、内豆腐町は姫路城下の加納町となっている(姫路町飾万津町地子銀控)。寛保2年(1742年)写の播州姫路図(姫路城管理事務所蔵)にも加納町が記されるが、外豆腐町はしだいに豆腐町と称するようになったようで、文化13年(1816年)以前の姫路城下侍屋敷図には豆腐町とみえる。弘化4年(1847年)には外豆腐町として人数114・寵數31(うち本組22・店組19で合計合わず)であった(「飾万津中明細覚書」藤田家文書)。
明治8年(1875年)、谷町・忍町・宿村・芝原村・南畝村・南畝町と合併して豊沢村となる。(兵庫の地名Ⅱ)
藩政時代。飾磨津門の外側に立地していたので、行政的には飾磨津の町奉行の支配下となっていた。飾磨津門の内側を内豆腐町と称していたのに対し、飾磨津門の外側のため外豆腐町と称し、明治初年まで続く。本多忠国時代(1682年~1704年)、豆腐の職人が豆腐町と称した。明治8年(1875年)、県の行政簡素化政策に伴い、豆腐町を始め、忍町・南畝町・宿村・芝原村等を合併し、豊年澤山の義をとり豊澤村と呼称した。
明治22年(1889年)、市町村自治制施行にあたって、豊澤村・北条村・南条村・庄田村の四ヶ村が合併して、国衙荘の名をとって国衙村と称した。旧地名の豆腐町は字として存置した。このように豆腐町は国衙町の村域に入ったわけである。
明治45年(1912年)4月1日、国衙村は圀府寺村・神屋村とともに姫路市に合併し、旧豊澤村は芝原村を除いて姫路へ編入されたので、豆腐町・忍町等が旧町名を復活し、姫路のまちへ仲間入りするわけである。なお豆腐町の小字には水田・万燈が残っている。
明治21年(1888年)に山陽鉄道、明治28年(1895年)に播但線のいずれも開通、機関区・鉄道官舎等の設置によって町は漸次発展していく。
大正12年(1923年)、豆腐町踏切に国鉄線往来の増加に大跨線歩道橋が敷設された。戦時中、金属回収の国策に沿って撤去されるまでは町の名物となっていた(※戦後の写真にこの歩道橋が写っている。戦後仮駅のホームとホームを繋ぐ架橋に転用されたという)。
戦後は主食・食料品等の自由市場となり、また「南地」等の密集飲食街ができるなど、異常な活気を呈した。
昭和41年(1966年)、モノレール軌道の開通に伴い、大将軍駅までの幹線道路(高尾線)が町内を東西に貫通し、町並みが近代化された。
昭和37年(1962年)、自治行政の規模適正化により、駅前町・久保町の各町の一部が繰り入れられ自治組織が拡大された。
姫路機関庫
明治21年(1888年)、神戸~姫路間の鉄道が開通し、駅舎・機関車庫等が豆腐町の町内に建設された。明治36年(1903年)、煉瓦造りのトンネル型車庫が建てられ、10台の機関車が回転台によって出入りできる大規模なもので、戦災にあうこともなく存置されたが、国鉄の電化に伴って廃止された。
豆腐町駅
明治28年(1895年)4月、播但鉄道株式会社によって、姫路~飾磨間が開通したが、同31年(1898年)4月、飾磨行専用駅として、簡易停車場を設けられ、通称豆腐町駅として利用者に馴染まれた。明治末期の汽車賃は姫路~飾磨間3銭、亀山~飾磨間2銭であった。特に夏は飾磨海水浴場行の一般客・学生・児童で活気を呈していたが、昭和初年、駅は廃止され、本駅舎内に移転した。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)