姫路裁判所

明治14年(1881年)、神戸裁判所姫路支庁が薬師山下の元飾磨県庁、飾磨郡役所内より直養に移転し、同時に姫路始審裁判所と改名した。現在の三和銀行姫路支店東側の大手前通りにあたり、姫路城に向き合うように北面していた。明治23年(1890年)、神戸地方裁判所姫路支部、姫路区裁判所と改名した。(ふるさと城南ものがたり)

直養町

往昔、勅命によって、この地に刑部社が祀られ、勅供養といい、直養と転じたのではないかという。また榊原忠次(1649~1669)の時、御供所稲荷・白川稲荷・直養稲荷の三稲荷社があった。このうち直養稲荷がここに祀られていたことによるともいう。
藩政時代、侍屋敷で騎射場も置かれていた。明治22年(1889年)4月、市制施行のとき直養と命名し、大正元年(1926年)、町名をつけて直養町と改称した。この時は、南に接して外堀が飾磨津門から北条門にかけて、めぐりさられていた。
明治14年(1881年)、神戸裁判所姫路支庁が薬師山下の元飾磨県庁、飾磨郡役所内より直養に移転し、同時に姫路始審裁判所と改名した。現在の三和銀行姫路支店東側の大手前通りにあたり、姫路城に向き合うように北面していた。明治23年(1890年)、神戸地方裁判所姫路支部、姫路区裁判所と改名した。
明治21年(1888年)12月、山陽鉄道姫路駅が建てられてから、舟運と市中往来の中心であった福中町周辺より、交通重心が東方へ移動し、直養町は姫路駅前としての立場が強化されていった。戦後は山陽電鉄・神姫バス・市営バスのターミナル化・山陽百貨店等の商業施設の充実により、文字通り姫路の玄関口であり姫路では最高の地価を維持している。(ふるさと城南ものがたり)

光徳寺

光徳寺
真宗本願寺派で文明年間(1468~86)、飾磨津より飾磨津門内南町に移る。法専坊の弟という(兵庫県史第3巻)。戦災にあって焼失し、戦後、西安保に移る。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)

姫路警察署

姫路警察署跡
立町筋を南へ直進したところの今の城陽ビルと、その南側、富士サウナをふくむ一帯で約2500平方㌖の地に明治34年(1901年)3月、それまであった県立姫路病院のあとに姫路警察署が設置された。当時としてはモダンな庁舎であった。警察業務は明治6年(1873年)、はじめて邏卒15人を募集して姫路のまちの治安を取り締まった。明治8年(1875年)、捕亡手15人を置いて、取締範囲を播州一円とし、京口に建物を設け、姫路警察署とした。福中町に分署をおき、明治34年(1901年)、南町に新築移転したのである。当初の管轄は姫路全市および飾磨郡の一部に及んだ。消防機能も兼ねていたので、火の見櫓が庁舎の前に設けられ、半鐘が吊るされ、火事の時には盛んに鳴らし、市民を不安がらせたものであった。また編笠をかぶせられた被疑者が東側の裏側から出入りしたものであった。昭和7年(1932年)、元塩町に移転し(今のNHK姫路局)、戦災も免れ、昭和39年(1964年)、現在地(本町68)に移ったのである。南町の庁舎のあと、内務省土木出張所、職業紹介所(戦後は職業安定所)、公共組合事務所等が設けられた。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)

飾磨口門趾

飾磨口門復元図 画:多田初治
飾磨口門復元図
画:多田初治

飾磨津方面への出口にあったのでこの名がある。ここで西からの堀は南に、東からの堀は北に折れ曲がる。北向きの脇門付きの櫓門で、桁行12間(約21.6㍍)・梁間2間半(約4.5㍍)・明き12尺2寸(約3.7㍍)、脇門の明き4尺2寸(約1.3㍍)の瓦葺。門の北方に桁行2間(約3.6㍍)の多門があるほか、桁行5間半(約10㍍)・梁間2間2尺(約4.2㍍)の番所があった。(姫路市史第14巻)

光徳寺

東側南に光徳寺がある。同寺は浄土真宗本願寺派、文明年間(1469~67)、飾万津から光源寺とともに城下に移ったというが(大正8年刊「姫路市史」)、末寺帳によると明応元年(1492年)に建立、開基は善准、元和3年(1617年)、順慶の代に寺号免許。第二次世界大戦の罹災後に西阿保に移転。(「兵庫の地名Ⅱ」)

南町

南町商店街の入口
南町商店街の入口

南町は姫路駅前の大手前通りより西にある町で、姫路城の城下町の南端にあることからその名があります。江戸時代はこの町の南にあった飾磨口門の内側にある町人町でした。戦後、山陽百貨店や播州初のスーパーマーケット・銀ビルストアなどが次々に開店して新しいショッピング街となります。最近は一時の賑わいはないものの、立地のよさと土地の安さから若者たちが集まり、老舗の飲食店とおしゃれな居酒屋が混在する町となり、コワーキングスペースなども集まっています。

Continue reading 南町

忍町

飾東郡に所属。姫路城南西の外堀のすぐ南、飾磨門(飾磨口)の西に位置する東西の町筋。飾万津町20町のひとつ。飾万津の町奉行の管轄下にあった。町名は忍の者を置いたことによるという(姫路市町名字考)。中世は南畝村のうちで、近世初頭に飾磨門から飾万津へ通じる街道沿いが町場化する過程で当町が形成したと考えられる。延宝5年(1677年)、新たに当町を侍屋敷とし、このとにあった薬師寺を飾西郡栗山村に移したという(姫路城史)。元禄8年(1695年)写の姫路城図では「しのび丁」は町家となっており、西端に欽城院と北村与兵衛組屋敷が見える。元文5年(1740年)の地子銀高101匁余(姫路町飾万津町地子銀控)。文化13年(1816年)以前の姫路侍屋敷図によれば欽城院と北村与兵衛組屋敷の跡が家老・本多主税助の下屋敷となっている。弘化4年(1847年)には人数84・寵數19はすべて本組であった(「飾万津中明細覚書」藤田家文書)。
明治8年(1875年)、谷町・豆腐町・宿村・芝原村・南畝村・南畝町と合併して豊沢村となる。(兵庫の地名Ⅱ)

姫路城曲輪の外に位し、外堀の南側でもあった。松平直矩の慶安元年(1643年)頃、飾磨津門口にあたる、この地にあった薬師寺を飾西郡栗山に移転させ、その跡を侍屋敷とし「忍びの者」を置いたので町名はその由来とされる。城の裏鬼門(※鬼門の誤り)ともいうべき丑寅つまり東北にあたる竹之門内に伊賀屋敷を設けていたのに対し、表鬼門(※裏鬼門の誤り)の未申、つまり西南に当たるこの地に置いた。当時の為政者の意図が見られる。この町の南端は道路に沿って片側のみの町並みとなっていたので片とうふ町とも称していた。
明治8年(1875年)、忍町・豆腐町・南畝村ら6ヶ村が合併して豊澤村となる。明治22年(1889年)、豊澤村・北条村・南条村・庄田村の4ヶ村が合併して国衙村大字豊澤となる。
明治45年(1912年)4月、姫路市に国衙村らが合併したのに伴い旧名名・忍町が復活し、同時に豊澤村落久保の一部および福中村字梅林が忍町に編入された。
大正2年(1913年)9月から大正3年(1914年)2月にわたり十二所神社南側の外堀は飾磨津門にかけて埋め立てた。その面積は3230㎡であった。埋立地は忍町となっている。
戦後は区画整理によって著しく変わり、南隣の久保町が卸市場街として繁栄を重ねるにつれて土地が狭くなり忍町の方へと市場街は拡大し、早朝営業を行う食品を中心に飛躍的に発展した。
昭和37年(1962年)、自治行政の規模適正化から久保町・十二所町・大蔵前町等の一部が繰り入れられ、自治組織は拡大された。

あいらく園
忍町の西端、十二所前南側の約5千㎡の地に戦災に会うまであいらく園という料理旅館があった。酒井家入部までは護念院という山伏寺院であった。その後、酒井家家老本多家の下屋敷がこの寺跡に設けられていた。西に隣接する船場川より水を引いて、池泉・名石を配した風格の高い庭園であい楽園と号していた。
明治の中頃、福中町の豪商・あが久呉服店の矢内久七が買収し、その後、ひさご茶屋が継承した。日露戦争の戦勝に軍都姫路が活気づいていた頃には、あい楽園は、当時、福島楼・井上楼とともに三軒だけ許されていた料理旅館として不動の地位を築き、姫路の名所として阪神間に知られたという。大太平洋戦争に入る昭和15年(1940年)頃までは播州一円の政財界の夜の社交場として、その名門をうたわれたが、戦災により灰塵となり、都市計画によって跡形もなくなった。
(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)

大蔵前

姫路城の南西にある福中門(初め備前門)を出たところから少し南に位置する町人町。富田町の北で船場川に沿った町。姫路藩の米蔵があった。慶安2年ー寛文7年(1649~67)の侍屋敷新絵図に「藏之前の町」とある。当町の南東に船場蔵があり、南に葛屋町(のちの富田町)がある。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控よれば家数16・地子銀44匁余。寛延2年(1749年)の洪水で死者4人を出し(「溺死流家潰家事」出口家文書)、船場大蔵も半壊したという(姫路城史)。寛延4年(1751年)頃の大蔵前絵図によると、船場川が屈折している所に沿って道を挟んで船場川向きに17軒が並び、ほとんどが間口3間4尺までの町家。(兵庫県の地名Ⅱ)

藩政時代、酒井忠恭公、寛延2年(1749年)、入部のとき、大蔵前と呼称した。船場川のほとり、米蔵の建ち並ぶ重要な地域であった。
市制施行の明治22年(1889年)4月1日、大蔵前の町名を引き継いだ。大正元年(1912年)、下片町・富田町および福中村字後尺の3ヶ町を大蔵前に編入し、ここで大蔵前町と改称している。富田町は旧名を屑屋町・葛屋町等になっていた。
明治35年(1902年)4月1日、西尋常高等小学校が大蔵前町に設立された。のち義務教育6年制に改正されたため、明治41年(1908年)に廃校となる。大正14年(1925年)、姫路女子技芸学校を改名した姫路市立高等女学校が、この建物に移り、昭和13年(1938年)、車崎に移転するまでここに在った。
戦前、大蔵前から船場川を横断して西塩町へ通じる道路に架橋された御祓橋があり、中堀(※外堀の間違い)には松影橋があり、中堀(※外堀の間違い)と船場川の中間にある土堤には見事な松が林立し緑化環境は見事なものであった。

関西電力
姫路電燈株式会社が明治30年(1897年)、大蔵前町に創立した。姫路市内の電燈用として電力60キロワットを供給したのが始まりで、明治43年(1910年)、姫路水力発電株式会社と改称した。水力発電によって中播・西播にも供給するようになる。
大正7年(1918年)8月の米騒動のとき、同社の職工・人夫100余名が米価の高騰を主な理由として三割方の値上げを会社側に要求してストライキを行っている(「神戸又新日報」大正7年8月)。
大正15年(1926年)、同社は中国合同電気株式会社と合併して同社姫路支社となる。昭和17年(1942年)、国策に沿って関西電力株式会社姫路支社となり目まぐるしく変転しながら発展を遂げていった。
(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)

十二所前

姫路城南西の外曲輪に位置する武家町。新身町の南の十二所権現前にあたる。慶長6年(1601年)の町割で成立した。慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図では新身町と外堀の東西に連なる15の侍屋敷が当町にあたり、南西端の外堀の屈曲するところに十二所権現がある。元禄8年(1695年)写の姫路城図には「小役人町」と書かれ、十二所権現の前の南側に土手を背にして続いている。宝永8年(1711年)の姫路城下町絵図では長屋は「同心グミ」となっている。文化13年(1816年)以前の侍屋敷図では10軒の侍屋敷のうち住んでいるのは7軒で3軒は空家らしい。ほかは組屋敷になっている。十二所権現の前に寺跡とあるが寺名は不明。十二所神社の現祭神は少彦名神。延長6年(928年)、一夜にし十二茎の蓬が生じ、蓬菜をもって諸病を治すべしという信託により長畝の森といわれた南畝字大将軍に創建されたと伝える。安元元年(1175年)、現在地に移ったという(播磨鑑)。「播磨国衙巡行考証」に「のふねん村・白銀町・たて町大道小路下・西魚町南側・船場大蔵前・しのび町は十二所氏子」とある。拝殿が東向きとなっているのが特徴。境内には摂社として姫路城伝説の「播州皿屋敷」で知られるお菊を祀るお菊神社(旧三菊大明神」がある。(「兵庫県の地名Ⅱ)