俵町の町名碑(西二階町) 田江戸初期は大和町と称した。大和出身の人びとが居住したという。慶安元年(1648)松平大和守直基が姫路城主となったので、官職をはばかって俵町と改めた。俵屋という豪商がいたという説もあるが定かではない。昭和59年区画事業で町名が廃止され、西二階町に編入された。(『城南地区』をたずねて)
姫路藩勤王志士終焉之地碑
幕末、多くの姫路藩士が勤王の志士として活躍したが、文久3年(1863年)、八月十八日の政変が起こると、姫路藩主酒井忠績(ただしげ)は姫路藩の勤王派の取り調べを開始し、翌元治元年(1864年)12月、多くの勤王派の藩士たちがこの藩用監獄に投獄され、うち2人が斬首・6人が切腹を命じられ、俗に甲子(かっし)の獄と称す。明治時代になるとこれら勤王の志士たちは新政府によって賞されることとなり、大正5年(1916年)に藩用監獄跡の武徳殿の脇に顕彰碑が建立されました。しかし敗戦後、アメリカ進駐軍の意向を怖れた有志によってこの顕彰碑は撤去され、護国神社の境内に置かれていましたが、蟹江宗次郎姫路郷友会会長ら有志によって昭和43年(1968年)、大蔵前公園に再建されました。(©芳賀一也)
姫路市役所開庁地
姫路市役所開庁地(白銀町) 明治22年4月1日(1889)に市制が施行され、8月18日白銀町の生田医院(現中国銀行付近)を借上げて市役所が開庁、家賃は月5円であった。明治30年に北条口の新庁舎に移るまで、周辺は裁判所、姫路駅など新しい都心を形成した。(『城南地区』をたずねて)
光源寺
光源寺(十二所前町) 浄土真宗本願寺派、古くは播磨六坊の一つであった。蓮如の弟子淨覚が延徳3年(1491)飾磨区細江に創建したという。慶安元年(1648)下白銀町に移る。戦災で現在地に移ったが、当時は鉄筋のモダン寺として話題を呼んだ。(『城南地区』をたずねて)
長源寺
長源寺(立町) 男山山麓にあった長彦寺が輝政の慶長町割で当地を与えられた。明治初年に一時無住になり、やがて総社の明王院が移転したが、大正末に再び長源寺が復活し、それまで寺で祭祀した長壁神社と境内を折半して分離した。長壁神社の6月神事には、無燈籠に走り馬の絵を描き入れ「長源寺の無燈籠」として知られ、祭礼にも売られていた。(『城南地区』をたずねて)
西福寺
浄土宗西福寺は初め惣社(射楯兵主神社)付近にあったが、天正(1573〜92)頃、当地に円誉生西が開基し、慶長年間、池田輝政が本堂を建立(播磨鑑)。本尊は帝釈天である庚申天も祀っていたので、第二次世界大戦までは「庚申さん」、庚申寺とも称されたが現存しない。(「兵庫の地名Ⅱ」)
光明寺の北側に位していた浄土宗の寺院。木下家定が姫路に入部した天正の頃、総社あたりから、この地に移転した。池田輝政によって本堂が造営された。境内に庚申堂が祀られたので、榊原家時代には庚申寺と称せられていたこともあった。昭和20年(1945年)7月の大空襲で焼失した。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
西福寺は天正ごろ総社付近から当地に移る。開基は円誉生西。境内に庚申寺ともいわれ、姫路城の裏鬼門になるので厄除け寺ともいわれた。戦災によりいまの地に移り、現在は光明寺が管理している。(『城南地区』をたずねて)
城南小学校
城南小学校(本町) 明治9年(1876)当時の一等地といわれた福中門官有地に、城内、船場、八代、南敏、綿町等にあった9校を統合し、城南小学校と命名、生徒数1,051名で、兵庫県下第1の大規模校であった。旧校の則地校の明治6年を創立年とする。同41年十二所前へ移り、戦災の後、昭和34年いまの地に移転した。同校出身者には歴史家の辻善之助、経済人龍田敬太郎、前衛画家山本敬輔、東大名誉教授米花稔、工芸家立花江津子等(『城南地区』をたずねて)
茶町の町名碑
茶町の町名碑(古二階町)茶町は江戸初期からの町名で、『播磨府中めぐり』によると、この付近は高尾宿があり家数40ばかり、遊女をおいた料理屋があった。地名もこれに因んでいる。昭和56年、区画事業により廃止され、古二階町、北条口4丁目等に分割されたが、由緒を尊ぶ有志により記念碑が建てられた。(『城南地区』をたずねて)
赤鹿神社
赤鹿神社(北条口3丁目) 姫路市八代にあった御茶屋屋敷の東北隅に稲荷神社が祀られていたが、池田家が転封のとき姫路城内に移され、明治維新のとき北条口に移されたという。戦災のあと現在地に再移転する。八代にあったとき、士豪の赤松氏にちなんで赤松神社と称した。戦前は、米穀取引所が近くにあった関係もあり、市中の有力者の信仰をあつめ、玉垣にもそのなごりがみられる。(『城南地区』をたずねて)
幡念寺
幡(はん)念寺(ねんじ)(北条口2丁目) 三河国吉田(現豊橋市)にあった悟真寺の海牛(寒牛)和尚の開基という。法然上人系の広願説もあり、浄土宗。輝政の慶長町割のとき現在地を与えられた。享保3年(1718)行誉により再興。境内に延命地蔵があり、むかし飢饉のとき、山中より出て人びとに餅を与えたので餅売りの地蔵と崇拝された。昭和初期までは、8月下旬の地蔵まつりは賑やかであった。(『城南地区』をたずねて)