神明神社(亀井町) 摂津国玉造(現東大阪市)より、大正期(1573~92)に移し祀られたという。祭神は天照大神。もと約1200mあった境内は、いま250mと狭くなった。戦前は、大阪堂島天神祭に準じて7月25日に例祭が行われたが、これは近隣の姫路米穀取引所の意向によるものであった。当社の祭りは、とくに仁輪加という即興寸劇が評判であった。戦後、昭和27年ごろより7月15日・16日となり、露店もでて賑やかになる。(『城南地区』をたずねて)
妙行寺
妙行寺(坂田町)本覚院日正の開基で慶長11年(1606)の創建という。日蓮宗。境内に小柄な3基の五輪塔があり、いずれも凝灰岩製で慶長ごろのもの、また花崗岩製の道祖神が祀られている。(『城南地区』をたずねて)
善導寺
善導寺(坂田町)寛仁元年(1017)誓忍阿闇梨の開基という。もと正方寺(坂田町)梛本(なぎもと)(東高校付近)にあったので梛(なぎ)寺(てら)と称した。享徳2年(1453)華厳宗から浄土宗に改宗し、輝政の慶長町割により現在地に移った。境内にある笠塔婆は、建武元年(1334)の銘があり、市内では2番目に古いもの。江戸末期の豪商紅粉屋重右衛門の墓がある。本尊の木造薬師如来坐像は市指定。(『城南地区』をたずねて)
正方寺
正方寺(坂田町)天正9年(1581)別所町佐土より総社西門あたりに移り、輝政の慶長町割で現在地へ移る。浄土宗。境内に慶長18年(1613)正月24日云々と刻まれた池田輝政の供養塔のほか。縄掛突起のあるある珍しい石棺蓋石、日本回国塔などがある。また本堂の唐戸は、出羽の庄内坂田(山形県)の豪商本間光丘が、若い頃の修行先であった姫路の豪商馬場了可の13カ回忌供養に寄進したもの(『城南地区』をたずねて)
切手木綿会所跡
切手木綿会所跡(綿町) 江戸末期、酒井家の家老河合道(みち)臣(おみ)(のち寸翁)は、藩の財政改革のため、文政3年(1820)山陽道に臨む要衝に切手会所を設け、翌4年には国産会所を併設し、木綿札や木綿切手を発行した。この会所は、明治になってから区役所など公共施設に利用され、その後、民間医院となり戦災で焼失した。(『城南地区』をたずねて)
射楯兵主神社(播磨国総社)
射楯兵主神社の起源には二つの説があり、一つは欽明天皇25年(562年)6月11日丁卯に伊和大神の御分霊を水尾山に祭ったという説(「播州事蹟覚書」「明和5年丁卯祭祝詞」「安永9年書上明細帳等」)で、もう一つは欽明天皇25年(562年)3月に大己貴一座が宍粟郡伊和郷に鎮座し、
播磨国総社・射楯兵主神社(総社本町) 社伝によると、延暦6年(787)兵主神を小野江(国立病院付近)に移し、のち射楯神を併祀したという。さらに養和元年(1181)、新任の国司が国内の諸社巡拝を簡略化するため、播磨国内の174座を合祀したという。現在地へ移ったのは、元亀元年(1570)より天正6年または9年とされ、中世の赤松氏や江戸期の藩主の崇敬が厚かった。榊原忠次寄進の石造大鳥居は県指定、「三ッ山ひな型」は国指定、また「一ッ山」「三ッ山」の神事は県指定(国選択)となっている。年間神事には1月13~15日の初えびす祭、2月18、19日の厄神祭、6月30日の輪抜け祭、11月13~16日の例大祭(霜月祭)などがある。
本町遺跡
本町遺跡(本町) 姫路郵便局周辺は、広範囲に古瓦が出土していたので、本町遺跡と称されていた。昭和56年、郵便局の庁舎増築に伴う発掘調査により、江戸期の石組みの遺構や織豊時代の井戸等のほか、古代の播磨国府系瓦や付属建物跡、塀など古代官衙跡とみられる遺構が検出されて、播磨国衙跡の可能性が強くなった。(『城南地区』をたずねて)
城南校区
城南地区は、姫路城の南方及び南東方に位置し、おおむね白鷺中学校区を指す。この地区は、かって市川の氾濫原であり、沖積地である。古い河川として青見川(藍染川)、白井川、飾磨川等が古記録に残っている。近年、本町遺跡の発掘調査によって、古代播磨の官衙があったことが明らかになるなど、播磨国の中枢地でもあった。兵庫県神社誌によれば16世紀初頭には宿村(二階町付近)、農年村(南敏)等の集落が見える。池田輝政の慶長町割により、姫路城中曲輪のほとんどが武家屋敷、国道2号以南及び総社周辺は町屋となり、町屋の外周に武家屋敷を配し、坂田町などは寺院街となったが、この町割は明治初年の廃藩まで殆んど変らなかった。山陽道も当地域を通り、本陣・脇本陣・高札場が置かれるなど、城下町の中心的機能を果たしてきた。明治以後もその機能は変わらず、明治22年白銀町に姫路市役所が開庁、山陽鉄道姫路駅、裁判所、警察署、米穀取引所等も置かれた。「城南」の地域名は、明治9年、城南小学校と名づけられたのが公的には初見とされる。大正12年(1923)城巽小学校が分離して創立された。(『城南地区』をたずねて)
播陽飾東郡国衙庄姫路図
本多藤原政武公御時代播陽飾東郡国衙庄姫路図
静嘉堂文庫
元禄十五年(1702年)以降
本多藤原政武とは本多忠国のことで、第二次本多時代の城下町絵図である。城下だけでなく周辺の村々や山なども描く。おそらく城下町の外側にある留ヤマも描写しようとする意図があったのであろう。甲山(現在の冑山)のところに三社宮を勧請した年紀を元禄15年(1702年)と記すので、この年が絵図作成時期の上限となる。
内曲輪では現在の天守丸を朱で囲んで「本丸」と記す。通路は朱線で示し、各門には朱書する。「鵰門」内の大名町には都筑惣左衛門の屋敷がある。その一区画北にあたる桜町では都筑惣左衛門の名前が消された痕跡があったり、ろノ門とをノ門が逆になっている。基図からの書写の際に間違ったものであろう。また西の丸と「三左衛門殿丸 山里」(上山里曲輪のこと)だけに敷地寸法が記入される。備前丸には「御殿有御前丸」とある(「播州姫路城図」では現在の折廻櫓を「御前櫓」とする)。三の丸居城部分には御殿そのものの描写はないが「虎ノ間玄関口」、「台所口」、「小納戸口」など七つの出入口が明示され、御殿エリアをとくに区分している。西の丸では「西の丸 中書丸ト云 屋形アリ」と記され、規模は不明ながら屋形(御殿)がまだ残っていたことを示唆する。
南の城外には三左衛門堀が描かれている。絵図の中には姫路城の南部外堀と接続させて描くものがあるが、本図では細長い溜池のように描かれている。(姫路城絵図集)
本福寺
浄土真宗本福寺は大永5年(1525年)、の創建で寿慶の開基(姫路紀要)。