浄土真宗本願寺派善教寺は永正3年(1506年)建立。教薫の開基。本仏・寺号免許は元和9年(1623年)、祐心の代という(末寺帳)。江戸末期の15代住職・結城亮聞は寺内に学問所を開き、学問寺として著名(昭和57年、大寿台に移転)。
西塩町
姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。竪町の西にあり西端は外曲輪の土手までの東西の町筋。慶長6年(1601年)の町割で成立。塩蔵があったといい元塩町に対して西を冠した(大正8年刊「姫路市史」)。寛永8年(1631年)の那波宗顴譲状(前川家蔵那波文書)に「にししほ丁」とあり慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図に町名が見える。天和2年ー宝永元年(1682〜1704)の姫路図に本福寺と善教寺が見える。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数77・地子銀525匁余。寛延4年(1752年)頃の西塩町絵図には通りの北側に37筆、南側に40筆の屋敷があり、寺院と数軒を除いてほとんど表は5軒未満である。町の西端に「常番」がおり木戸があった。北側に前掲二寺のほか理教院持屋敷がある。
浄土真宗本願寺派善教寺は永正3年(1506年)建立。教薫の開基。本仏・寺号免許は元和9年(1623年)、祐心の代という(末寺帳)。江戸末期の15代住職・結城亮聞は寺内に学問所を開き、学問寺として著名(昭和57年、大寿台に移転)。
浄土真宗本福寺は大永5年(1525年)、の創建で寿慶の開基(姫路紀要)。
真言宗理教院は文禄4年(1595年)の創立で宣襄の開基(姫路紀要)、現存しない。(兵庫の地名Ⅱ)
池田輝政の町割に既にその名がみえる。塩蔵が所在したので総社南の元塩町に対し西塩町と称した。穂積文書によると、榊原政岑公の元文5年(1740年)には西塩町は77軒で城南では当時最も家数の多い町であった。二位は坂元町・西魚町の64軒となっていた。明治22年(1889年)4月1日、市制実施後も引き続いて、藩政時代の町名を施行し、今日に至っている。戦前は魚町料飲街の裏店(うらだな)として、芸妓置屋・待合等があるほかは静かな町であった。戦後は魚町歓楽街が西塩町へと浸透し、高層レジャービルが相次いで建てられ、活気ある町として息づいている。
善教寺
永正3年(1506年)創立の由緒ある真宗寺院。藩政時代末期には住職・結城亮聞が寺内に塾を開き、学者として世評を高め、播磨はもとより但馬・丹波・讃岐等より人材が集まり学問寺として名声を博した。戦後の住職・結城令聞は東京大学名誉教授・京都女子大学学長として、また仏教哲学者として国際的にも著名な学者である。戦前、善教寺の白壁に武者窓を取り付け、格式ある長屋門を構え、風格のある寺院建築であった。戦災によって焼失したが寺は再建した。
本福寺
大永5年(1526年)創立の真宗寺院。善教寺の東方約200㍍のところに立地していた。室町時代より古い寺院であったが、戦災にあい焼失した。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
クマタカ門遺跡
クマタカ門遺跡
戦後、現在の城南小学校構内の南端で弥生式土器、扁平片刃石斧が出土しクマタカ門遺跡と命名されている(姫路市文化財保護協会遺跡分分図)。このあたりは標高12㍍である。最近、改築中の城南幼稚園からも弥生式土器が出土している。弥生遺跡は沖積低地の氾濫原か河川の営力によってできた自然堤防の微高地に多く、標高5㍍までの地域が多いとされている。しかし姫路では飾磨区今在家字栗木3㍍の低地からも遺跡が発見されている(今里幾次長越遺跡調査前史昭和53年)。
姫路御城廻侍屋舗新絵図
姫路御城廻侍屋舗新絵図
姫路市立城郭研究室
慶安二年(1649年)〜寛文七年(1667年)
榊原家旧蔵図のうち絵図が収められた袋書からすると第一次榊原時代の城下町絵図であろう。色彩が丁寧に施されていることから藩士用の絵図とみられる。本図は作成された時期には、すでに姫路城下町全体の整備がほぼ完了したことが、この絵図から看取できる。
内曲輪の描写は省略され、そこに貼紙で城下の侍屋敷軒数を記している。この軒数は「姫路之城図」(寛文7年以降)に記された数値に一致している。袋書にはまた「外御城絵図入」とも、本来は本図とセットとなる内曲輪だけを描いた城絵図があったと考えられる。
細部では、北勢隠門と埋門の二重櫓、れノ櫓が描かれていない。とくに北勢隠門の櫓については「姫路城之図」(慶安2年~寛文7年)にも描かれてないので、第一次榊原時代にはまだこれらの櫓は築かれていなかったのであろう。また本図では中之門を「大手門」と記している。中之門を「大手門」としている絵図は、現段階では第一次榊原時代の絵図およびその写しに限られる。(姫路城絵図集)
姫路城下町絵図(寛文7年〜天和2年)
姫路城下町絵図
姫路市立城郭研究室
寛文七年(1667年)〜天和二年(1682年)
松平(結城)家中であった豊田家に伝えられた絵図。第二次松平時代の城下を描いている。喜斎門南の「豊田権内」のところが赤鉛筆で塗られているのは同家子孫の加筆とみられる。
門周辺の石垣表現から未完成の絵図、もしくは必要な情報だけを急いで書写した絵図とみられる。侍屋敷の士名は「播摩姫路之城圖」(国立公文書内閣文庫)と同じである。細部では北勢隠門脇の櫓および埋門の二重櫓が描かれているものの描き方が不自然で後筆とみられる。また「ツユマツ」「ひめ岩」といった城内の名所も加筆されている。樹木屋敷の記載がないのは基図が第一次榊原時代の絵図だったからであろう。
また本図では鳥居先門が描かれていない。鳥居先門は松平(奥平)時代以来、第二次松平時代以降になって開門されるまで、通常は閉鎖されていたために描かなかったのだろうか。備前門の南には牢屋があり、そのすぐ脇に「人切場」=処刑場が記されている。図中の位置では城内に人切場が置かれることとなってしまうので、おそらく書写の際に間違ったのであろう。妹背川の川筋を道と同じ色に塗っているなど誤りもみられる。(「姫路城絵図集」姫路市立城郭研究室)
西魚町
姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。恵美酒町の西に続く東西の町筋で北は俵町・福中町。慶長6年(1601年)の町割で成立。寛永8年(1631年)の(「那波宗顕譲状」前川家那波文書)に「にしうほ丁」とある。慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図に町名が見え、町の西部に光明寺・慈恩寺・庚申寺が、さらに西の外堀近くに籠屋(※牢屋)が記されている。寛文7年ー天和2年(1667〜82)の姫路城下図には籠屋(※牢屋)の前(東)に「人切場」とある。この絵図で光明寺が西塩町に恵美酒町がないのは誤りか?天和2年ー宝永元年(1682〜1704)の姫路図では庚申寺が西福寺となり、籠屋あたりは内蔵になっている。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数64・地子銀734匁余。元治元年(1864年)、尊王攘夷派の藩臣・河合宗元ら8名が当町の獄舎で斬首の刑や自刃の命を受けた(姫路城史)。これを甲子の獄という。
絵図帳にみえる寺のうち浄土宗光明寺は慶長の町割の時、飾万津から移転。開基は念誉。同宗西福寺は初め惣社(射楯兵主神社)付近にあったが、天正(1573〜92)頃、当地に円誉生西が開基し、慶長年間、池田輝政が本堂を建立(播磨鑑)。本尊は帝釈天である庚申天も祀っていたので、第二次世界大戦までは「庚申さん」、庚申寺とも称されたが現存しない。臨済宗妙心寺派慈恩寺はもと赤穂郡栗栖(現:赤穂市)にあり、赤松家が代々帰依した寺。赤松満祐のとき城の北西にあたる西城戸に移したが、慶長の町割で当地に建立(「播磨府中めぐり拾遺」智恵袋)。第二次世界大戦で全焼し、山之井町に移った。(「兵庫の地名Ⅱ」)
池田輝政の町割のとき、既に西魚町の名は見えていた(木多文化振興会蔵城下図)。多分、町づくりの時、生魚業者の集団があり、総社の東隣りにある東魚町に対し、西を冠し西魚町と称したのであろう。魚町・魚屋町・肴町等の町名は全国の城下町に多く52ヶ所と報告されている(「日本地名辞典」人物往来社・「旧城下町の地名について」矢守一彦)。昭和36年(1961年)よりの自治行政の規模適正化により西魚町・恵美酒町および福中内新町・西魚町の一部を含めて、公称:魚町とし自治会も単一化した。昭和59年(1985年)9月22日、復興土地区画整理事業により法制化された。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
料飲街
西魚町の料飲街としての歴史はかなり古かったようである。しかし裏付ける資料が乏しいが、次のような史実がある。名経世家河合寸翁(1767〜1841)によって西魚町海老屋権六の料亭を藩用金で天保元年(1830年)に新築し、大坂・江戸の藩御用の金主の接待所にあてている。
明治7年(1874年)、大阪鎮台の二個中隊の姫路駐在が決定されたのに伴い、風紀対策上、遊郭の設置が唱えられるようになり、一時、西魚町がその候補地となったが、地元の反対により野里梅ヶ枝町に決定したという一幕もあった。
戦前は芸妓・娼妓のいるまちとして花柳街と呼ばれていた。明治時代は芸者の養成と斡旋をする検番が竹鹿・井上・中店の三ヶ所にあった。明治の末期には合併して南陽社一本になった、大正初年、芸妓・舞妓の質的向上が養成され、城南小学校の校区外出身の者を対象として「本町女紅場」が設けられ、尋常小学校の教科を教え、併せて茶の湯・活花および裁縫等も教えたが、大正6年(1917年)に廃止された。
その後、竪町に新検番「い店」ができ、まもなく東検番と称し、昭和初期になって姫路検番となる。大正2年(1913年)、芸者数137人・舞妓17人の在籍であった。戦後、姫路・白鷺の二検番は昭和33年(1958年)の買収防止法による赤線廃止を機に1本となり、昭和35年(1960年)頃には芸者78人・舞妓1人に減少して時代の波を受けていく。
その後、社会の洋風趣向の浸透によりバー・キャバレー等の社交形態の多様化により、芸者を基調とした和風趣向は衰退し、しっとりした粋な雰囲気を持った魚町も、大きく変貌していく。しかし夜の歓楽街として、播州一円にその顧客をもつ魚町は新しい風潮を貪欲に呑み込んで関西有数のレジャー産業地域としての立場を固めつつある。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
恵美酒町
姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。俵町の南にある東西の町筋で西は西魚町、東は竪町。恵美須町(姫路府志)・夷町(「本多家在姫路覚書」中根家文書)とも記す。町名の由来は料理茶屋の恵美酒屋があったからとする説(大正8年刊「姫路市史」)などがある。慶長6年(1601年)の町割で成立。慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図に『ゑびす町」とみえる。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万町地子銀控によれば家数27・地子銀291匁余、先述の恵美酒屋がのち海老屋(謙六か)と称し姫路藩御用商になり、天保元年(1830年)、藩命により屋敷を新築したという(大正8年刊「姫路市史」)。(兵庫の地名Ⅱ)
福中町
姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。福中門(はじめ備前門)内で俵町の西に延びる東西の町筋。元亀年間(1570-73年)頃、大名町南側、中ノ門の西、竪町筋の西から現在の福中町周辺をといい、船場川右岸の現在の福中町周辺を下福中村といった(「播磨国衙巡行考証」知恵袋)。慶長6年(1601年)の町割によって、上福中村は外曲輪の区画内に取り入れられ町場化した。慶安2年―寛文7年(1649~67)の侍屋敷新絵図に町名がみえる。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数61・地子銀643匁。寛永年間(1624〜44)には堀浚えをした泥土を山陽道筋の本町・坂元町の往来に敷いたため旅人の往来が当町筋も変わり、旅亭が多くできて駅馬の便もよかったという(姫路府志)。旅籠町ともいわれ、享保18年(1733年)には旅籠屋20軒(姫路町書上帳)、寛保2年(1742年)には21軒(「播陽姫府町方控覚」前川家蔵那波文書)、宝暦5年(1755年)、姫路の旅籠屋27軒のうち当町は17軒(播州姫路考略記)、寛政2年(1790年)、19軒(「姫路町本家数并順町割御礼控」穂積文書)。茶屋・米屋・金屋・古金屋・紺屋・浜田屋・網干屋・灰屋・明石家・和泉屋・見野屋・飯田屋などがあった(大正8年刊「姫路市史」)。宝暦10年(1760年)の幕府巡検使接待に小間物類商の海老屋茂右衛門、刻たばこ商の灰屋次郎右衛門があたっている(新版「姫路市史」)。元文元年(1736年)、人足問屋・鉄屋四郎太夫は米手形預証文(前川家蔵那波文書)を町大年寄宛に差し出している。大年寄から人足問屋に毎年100石の米を貸し与えたもので、証文の文面に、「各様御預かりの米弐百石之内」とあるから二軒で人足を調達していたらしい。安永2年(1773年)にも人足問屋・紺屋庄兵衛の名が見える(「姫藩典政録」酒井家資料)。文化8年(1811年)3月3日、伊能忠敬が書写・広峰・増位諸山を測量して当町・井上庄兵衛方に宿泊した。同10年(1813年)12月29日にも同所に宿泊して新年を迎え、1月4日、仁豊野に向かった。元治元年(1864年)、矢内重三郎が紅金巾500反を神戸洋商から仕入れ、洋品直取引の始めといわれる(大正8年刊「姫路市史」)。「兵庫の地名Ⅱ」
戦国時代末期、元亀年間(1570~73)、中村の南方、雲見川(歴史地名書写方面より南流)・妹背川(歴史地名大野川および船場川の一部)の合流地点の一帯を「福中」と称し、上福中村・下福中村に分かれていた。上福中村は中の門周辺に及び、40余戸あり、戸長は福中三郎左衛門であった。輝政の時、現在の福中町に移っている。下福中村は、その後、福中村と称し、大正元年(1912年)、福澤村と改称している。
明治13年(1924年)4月、姫路市制施行後も引き続き、福中町と公称した。昭和37年(1962年)より自治行政の規模適正化によって福中内新町と単一化し自治組織も福中町自治会に一本化した。
藩政時代は西国街道の城内西端の位置を占め、運輸・通信・旅行等のセンターでもあった。酒井藩が前橋より転封した頃、城下には旅籠屋は神谷10軒・福中町17軒と計37軒あった(播州考略記)。酒井藩制後半となると、福中町は繁栄を重ね、旅籠町と別称されるぐらい旅籠が軒を並べ、姫路最大の旅籠センターとなった。また人馬の取り次ぎを行ったり、仕切ったりした人足問屋や伝馬所が置かれた。備前門を西へ出たところに博労町がある。ここは馬の面倒をみたり、馬の調達・仲買が行われ、福中町との関連は深かった。
明治に入っても姫路経済の中枢的な機能を発揮し、経済界のリーダー・浜本八三治郎・神村信五郎・矢内久七・三宅正太郎ら、人材も多く輩出した。商店街としても船場本徳寺の門前町的性格を失わず、戦前まで繁栄が続く。戦災によって壊滅し、復興はやや遅延し、漸く一般商業、とくに飲食店、バー・スナック等レジャー街として活性化しつつある。(ふるさと城南ものがたり)。
伊能忠敬の止宿
わが国初の科学的測量による日本の全国地図を完成させた伊能忠敬は(1745~1818)、その測量日記において、文化10年(1827年)12月、福中町の本陣・井上庄兵衛のところで止宿し、新年を迎えている。このほか三回、姫路とその周辺を測量している(姫路三十年史)。(ふるさと城南ものがたり)。
姫路郵便取扱所
明治4年(1872年)11月、福中町の伝馬所内で姫路郵便取扱所が置かれ、小林仁一郎が責任者として、郵便取扱人を申し付けられた。長い間、赤塗りの木製箱型ポストがここに立っていた。明治23年(1890年)5月、古二階町の寺跡に移転している。明治36年(1903年)、姫路郵便局と改称した。
大名町
姫路城南の中曲輪に位置する武家地。桜町の南で惣社門の西から車門までの東西に長い町筋。大明町(大正8年刊「姫路市史」)・大身町(享保3年「城内守備配置図」)とも書いた。町内の東西の筋は惣社大明神の参道にあたるため大明神筋・大明筋と呼んでいたことから大名町と称するようになったいう説や、姫路藩の重臣が居住したので大名町と称したという説がある(大正8年刊「姫路市史」)。また城下町割までの字名からとったいう説もある。慶長6年(1601年)の町割により中村と福中村の一部が中曲輪の区画内に取り入れられて町場化した。当町南の中堀土堤沿いは藪ノ端と呼ばれた(元禄11年写「本多家家中侍屋敷図(姫路城史)」
江戸時代を通じて家老をはじめ重臣の屋敷が集中している。慶長5~8年の姫路城郭図などによると、3万3千石の伊木長門を中心に1万石以上の家臣の屋敷がすくなくとも5軒、そのほか大部分が500石以上の上級侍屋敷で占められている。屋敷数は計28軒(空家3軒を含む)で、藪之端に20軒あった。慶安2年ー寛文7年(1649~67年)の侍屋敷新絵図に当町東の惣社門筋に面して会所がみえるが、元禄8年(1659年)の姫路城図では当町の西側にも会所が設けられている。宝永元年(1704年)の榊原氏入封後東の会所は評定所となり政務を評議したが、西の会所は侍屋敷となっている。享保3年(1718年)の諸門守備分担定(榊原家資料)によると、藪ノ端を裏町とし藪ノ端という言い方と並称していたらしい。寛延2年(1749年)、大雨で船場川が氾濫し、車門・埋門・鵰門・中ノ門が崩壊(姫陽秘鑑)、当町も相当被害を受けたと考えられる。同年、姫路に転封となった酒井忠恭は上野国前橋(現群馬県前橋市)にあった藩校の好古堂を姫路に移し、惣社の北、内京口門西の家老屋敷をあて(白鷺城旧図)、まもなく当町の評定所の地に移し、文化13年(1816年)、大手門前に移すまでこの地にあった(「好古堂定書」姫路神社蔵)。明治4年(1872年)、廃藩置県により侍屋敷は取り払われて官有地となり、鎮台練兵場や兵舎に変貌していった。明治12年の姫路城市縮図によると西の車門から鵰門にかけての一角はまだ町名が残り、旧屋敷が残存していた。明治初期、本町の一部となる。明治7年(1875年)、木村博明が同志数名とともに貧民施寮の病院を開設した。のちに会社病院と称し、明治9年(1877年)、姫路で初の公立病院、明治15年に県立となり南町に移転した(大正8年刊「姫路市史」)。(兵庫の地名Ⅱ)
総社西門から西方船場川に至る東西道路両側の一帯で、白鷺小中学校などを含む広大な範囲である。総社は惣社大明神と称し、一般の崇敬は極めて高く、この大名町の大名筋は大明神筋とも呼ばれた時代もあった。赤松時代は姫路の里とも称し、中村に属していた。輝政の町割によって戦国時代の字名をとって大名町としたとされている。会所・御用場・上級家臣の屋敷ともなった。幕末、家老高須隼人の居宅は10560㎡(3200坪)あり、家老クラスの宅地は9900㎡以上が数ヶ所あった。重臣クラスは大名町・桜町に多く、いずれも4000㎡から5000㎡あり、一般家臣は990㎡1160㎡の規模が多かった(糸田恒雄レポート「郷土史の研究」)
大名町の一画に明治7年(1875年)、木村博明らが欧米タイプの医療施設として、貧民を対象に会社病院が設立された。姫路における初の病院であった。明治9年(1877年)、公立病院に衣替えした。明治15年(1883年)、さらに県立病院となり、南町に移転した。現在の城陽ビル南側の一帯であった。明治34年(1901年)、建物を姫路警察に譲り、龍野町5丁目、薬師山のふもとに移転する。この時、日本赤十字に施設一切を移管して日赤病院に変身し今日に至っている。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)
船場川
保城で市川から分岐して姫路城の西を流れ播磨灘に注ぐ川。流長12.3㌖。現在、市川の分流とされているが、「播磨国風土記」大野里の条の「砥堀」の由来に見える「大川が」船場川のことで、古くは市川の本流であったというのが通説となっている。天正4年(1576年)の播磨府中めぐり(智恵袋)に「両山をいもせ川と云、今わずか残る、此川上を二また川と云。」とある。両山とは姫山と妹背山とも長彦山ともよばれた男山のことで、この辺りの流れを「いもせ川」とよんだようである。「今わずか残る」とあるように中世には細々とした流れになっていたという。保城で分かれた流れは野里北部の山王神社辺りで二つに分かれて二股川といった。東流は現在の橋之町辺りを南に流れ、西流は伊伝居・八代を経て「いもせ川」へと南流した。この流れは今の千代田町辺りで雲見川と合流し、手柄山の東麓を通過して三和川とよばれ(姫路名所案内)、播磨灘に注いだ。
慶長6年(1601年)の池田輝政による姫路城の縄張りは螺旋状に堀をめぐらすもので、この時すでに西の外堀は船場川を利用したと考えられている。元和7年(1621年)、姫路藩主・本多忠政は飾東郡横手村地内飾磨樋と船場川筋の普請を終え、車門から大樋まで船で遊覧した(「芥田家伝記」芥田文書)。元禄8年(1695年)の材木町材木屋共口上書(穂積家文書)には、寛永元年(1624年)に船場川筋普請が成就して新しく材木町が取り立てられたとある。1620年代に二股川の遺流と妹背川を利用して新河川を普請し、まもなく船場川と呼ばれるようになったと考えられる。工事の目的は外堀の整備だけでなく、飾万津との間に船運の便を開くことにあった。船運が開かれると材木町・小利木町辺りに市が立ち、材木町の橋を市之橋といい、船入川もこの頃にできたのであろう。材木町・小利木町については、寛永元年の舟入新町地子帳(前川家藏那波文書)に「材木町・小利木町一紙之地子銀町ニ而舟入新町と云也」とあり、この辺り一帯は初め「舟入新町」と称したようである。慶安2年―寛文7年(1649~67)の侍屋敷新絵図では小利木町・材木町に続いて市之橋から南へ船場町・船場橋詰町・川の片町・船場片町・橋詰片町・船場蔵のある蔵之前の町と川沿いに町が発達しており、やがて川西一帯が船場とよばれるようになった。
重要な水上交通路となった船場川には高瀬船が往来し、上りは岸から船を引いて水上方面まで荷物を運んだ。おもな積荷は塩・茶・木綿・米穀・木・石・薪炭・石灰などであった(大正8年刊「姫路市史」)。姫路藩の蔵米を船場川から飾万津を経て大坂に回漕したが、姫路領秘書(姫路城史)によると、船場蔵から米を川端まで持ち出すには人足を用い、賃銭一俵につき二銭半、内蔵(上三方蔵・下三方蔵)から船場川端までは馬で運搬し、駄賃は一駄につき九合であった。飾万津蔵前に着き高瀬舟からの荷揚げは船頭がした。船場川は暴風雨による市川の増水氾濫などにより、正徳2年(1712年)・寛延2年(1749年)・文政9年(1826年)と何回か出水し、周辺に大きな被害を出した。なかでも寛延2年の出水は未曽有の出来事で、7月1日早暁から降り出した雨は3日黎明まで降り続き、ついに横手村の船場川取入口の大樋が決壊して大洪水となり、城下一円に大被害を与えた。特に船場川沿岸の船場方面は材木町・増位町の93人を最高に322人の死者を出し(「溺死流家潰家事」出口家文書)、流失した家屋も数知れず、被害を受けた川端の2・3の町が他所へ移転するほどであった。また船場蔵は半壊し、船場本徳寺も大破した。姫路城の西部・南西部にあるほとんどの諸橋・諸門も流出崩壊し。中曲輪にある桜町などの武家屋敷も相当の被害を受けた(姫路城史)。
現在の博労町にある亀の甲橋近くに本多忠政の設計に基づいたという亀の甲堰があった。これは割石で亀の甲形の堰を築いて水位を上げ、備前門から外堀となった東側の堀に水を送る役目をしたと考えられる。清水門外の船場川近くに石碑がある。文字は読めないが前掲口上書に「立石」と記載されているもので、船場川改修工事の記念碑といわれる。船入川は材木町の南端にある炭屋橋西に今も名残りをとどめる船溜りのことである。(兵庫の地名Ⅱ)