池田輝政の町割では各門内は防御の為に空地が設けられていました。本多忠政公の寛政年間(1624〜1631)、中堀の泥土を坂元町の街道筋に敷いたため旅人が難渋し、ここを避けて福中町を通るようになり、それを復すため新町を置いたといいます。この町は新町・備前門内新町と称され、備前門を福中門と改めた際に福中内新町となったものと思われます。大正元年(1912年)4月、南部の一部を西魚町に編入、昭和37年(1962年)、福中町に合併吸収されました。(©芳賀)
白鷺橋
白鷺橋
白鷺橋は昭和8年(1933年)、姫路城の中堀を埋め立てて国道二号線が敷設された時に架けられた石製の橋です。橋に残る黒い染みは大東亜戦争の際の焼夷弾のあとです。、国道二号線の拡張工事の際には取り壊しも検討されましたが、住民の強い要望により移動拡張され、平成3年(1991年)3月に完成しました。
上片町にあった旧好古堂の校舎
高橋コレクションその他に収められているこの写真は、昭和12年(1937年)、旧好古堂校舎。今は古物市場。船場川畔。上片町(昭和12年)
国道二号線建設の碑
「昭和七年貮月國道貮號線改修ノタメ二城濠東西凡ソ四百五拾米ヲ埋メテ道路トナス依テ別二境石ヲ置キ其ノ城濠タリシコトヲ示ス」
昭和7年2月、国道二号線の改修のために城の濠、東西およそ450㍍を埋めて道路となす。よって別に境石(境を示す石)を置いて、その城の濠であったことを示す。
姫路城の南部中濠は埋立てられて国道2号線の一部になっているが、埋門と姫路信用金庫本町支店付近の間は、昭和7年に埋立てられ、当時の近代工法でアスファルト道路が竣工した。この建設記念碑は、もとの位置より約100m東へ移して設置されている。(『城南地区』をたずねて)
西国橋
江戸時代の西国街道は坂元町から南に下り備前門(福中町)を経て城外に出ていましたが、明治時代になると城門は却って邪魔となったために破却されて官有地となり、明治7年(1874年)10月31日に架橋願が出され、坂元町の西端に木製の橋が架けられ西国橋と名付けられました。今日ある西国橋は鉄製では大正13年(1924年)10月に架け替えられたものです。
姫路中央卸売市場
食品卸売市場
大正初年、食品卸売市場が山陽座周辺で開業し、青果7軒・海産4軒が建ち並び、北裏の中堀に板を渡し、「市」を開き、盛況を加えていった。このため隣接の福中内新町方面にまで業者が増え、大正末期には80軒以上にもなり、姫路海産物青果組合が結成され、加盟56軒で、横道組合長・大多荘右衛門副組合長であった。やがて繁栄に伴い、土地が狭くなって、店舗の敷地がなくなってきたことと、生産農家の自主参加による販売等により、昭和に入ってから、当時としては郊外だった久保町・京口の新設市場街へ移転することとなる(木谷敏夫談)。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)。
隣接の坂元町に、青果・海産等の仲買市場が開設された頃、福中内新町も船場川畔という好立地条件も手伝い、業者が相次いで開業し、飲食店・雑貨等が加わり、大変なにぎわいを見せる。大正の頃のことであった(高尾町大森英三談)。大正元年11月設立の株式会社姫路海産物・青物定市場が設立された(資本金3万円)のに引き続いて、山姫青果ら約10社が相次いで開業している。土地が狭かったこと、新しい流通体系を求めて、昭和初年、久保町および京口方面に業者は拡散し発展していった。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)。
福中内新町・坂元町の食品卸売問屋街が手狭になったことと、近郷生産農家らが既存の荷受問屋による流通経路より離れて新しい流通機構を求めていたこと等の理由で新市場街建設の機運が強まり、昭和3年(1928年)頃、菊川惣吉代議士・蟹江寿一郎県会議員・蟹江惣吉博融銀行頭取等政財界の協力により株式会社姫路中央卸売市場によって埋立整地を完了した久保町に簡易建築による5棟数十戸の簡易店舗が建設された。1戸当たり26㎡から150㎡あった。会社株8株をもったら入居できた。当初は入居する業者が少なかった。会社より1店舗家賃10円でよいから(当時米1升30銭)との要請に応じ、3年ほど遅れ、昭和6年(1931年)、川崎市蔵・木谷敏雄ら27〜8業者が丸青組合を組織して入居した。このほか丸八青果・かねふく青果・丸果・かねごう海産・かね利水産・三和藤らの青果・海産の仲買人、乾物・雑穀・食品等の卸商が軒を並べ、通称中央市場として順調に発展していった。
なお坂元町の横道水産をリーダーとして組合を結成した青果・塩干等の業者は昭和5年(1630年)頃、新設の京口卸市場へ集団移転した。塩干業者によっては姫路駅前方面から南町・豆腐町等に分散して営業していた。戦時中は姫路青果・山市青果等、相寄り、県の指導で兵庫県西部青果統制会社に一本化した。
戦後は地元業者が、いち早く立ち上がり、京口卸市場の業者も久保町へ合流し、隣の忍町へと拡大していく。青果・塩干の全国荷受機関の姫路青果・姫路中央青果・山市青果・姫路農産市場の4社を基軸として、乾物・漬物・菓子・雑貨の関連業者ら約300社が市場街を形成し、国鉄・山陽駅前という地の利も作用し、大変な発展を見せ、播州一円の台所としての機能を発揮した。
昭和32年(1957年)、姫路市営卸売市場が東延末に約5万㎡の土地に設立され、大手荷受業者を始め、大半の業者が移転したため、一時、卸売機能の低下をみたが、地の利を武器に移転業者の空家は埋められて再び繁栄を続けている(大森英一元大同青果専務および木谷敏男卸売市場運営協議会会長談)。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)
山陽座
明治36年(1903年)頃、万松座という演劇場が設けられ、姫路市内のみならず播磨の各地から観客が集まった。のち山陽座と改名され、付近に飲食店・旅館等が集まり、歓楽街を形成し、坂元町は活気のある町であった。戦後、山陽座は光源寺前町に移転する(ふるさと城南ものがたり)。
坂元町
姫路城の城下町である姫路町78町のひとつ。姫山の丘陵が南西に向かって下っていたので坂本と称し、その後、坂元と改められたとされる。また池田輝政の町割の際、刀鍛冶集団が書写の坂元から移住したことに由来するという説もある。坂本町と記した地図もある。 Continue reading 坂元町
坂元稲荷
江戸時代の初め、姫路城内に御供所稲荷がお祀りされていましたが、榊原忠次公(1649年〜1665年)の時代に坂元町に移されました。戦後、山陽座に祀られていた稲荷社を合祀し、神名を姫城東大神としました。
市ノ橋門趾
中曲輪西方の材木町にあり、すぐ西方にある市ノ橋にちなんでこの名があります。外門は西向きに開かれ、脇門付き高麗門で桁行3間(約5.4㍍)・袖間1間1尺5寸(約2.3㍍)・明き10尺(約3㍍)。内門は北向につくられた脇門付き櫓門で、桁行8間4尺(約15.1㍍)・梁間2間半(4.5㍍)・
明き10尺5寸(約3.2㍍)・脇門明き3尺5寸(約1㍍)・外門の南に桁行2間1尺(約3.9㍍)・梁間1間半(約2.7㍍)の出番所、北門内に桁行4間半(約8.1㍍)・梁間2間2尺5寸(約4.4㍍)の番所があった。いずれも瓦葺(姫路市史15巻)一名を老松門といいました。(多田初治)
しかしこの門跡は姫路城南線敷設のために取り壊され、さらに積み直されており、当時の形状を知ることはできません。