姫路城のある姫山は古来、
いかなご
姫路で春を告げる食材はといえば「いかなご」です。「いかなご」といっても、私たちが好んで食べるのはその稚魚で西日本では「シンコ」、東日本では「コウナゴ」と呼ばれます。
もっとも有名なのは『いかなごの釘煮』で、このシンコを醤油と砂糖で甘辛く煮たもので、この釘煮をごはんの上に乗っけて生卵を落とすとたまらないうまさです。ちなみに私が好きなのは『いかなごの釜揚げ』で、これもごはんの上に乗っけて生卵を落とし、醤油とわさびでいただきます。最近は「生シラス丼」なるものが登場していますが、これは生のシンコを乗っけたもので、新鮮なシンコが手に入る姫路ならではの食べ物といえるでしょう。
はて「シンコ」と「シラス」は何が違うのでしょう?WIKIPEDIAによれば「シンコ」はいかなごの稚魚、「シラス」はいかなごやいわしの稚魚の総称ということです。いかなごはスズキ目ワニギス亜目イカナゴ科の魚類で成魚はフルセとも呼ばれますが、実はこのフルセが実は美味しいのですが、それは姫路に来てからお楽しみください。
十二所神社
十二所神社は、平将門の乱直前の延長6年(928年)3月1日、南畝町にあった南畝の森に一夜のうちに長さ2丈(約3.6m)ものヨモギが12茎生えたため、村人が怪しんでいると、少彦名命が現れ、ここに吾を祀れ、そして民家に病のものがあれば、このヨモギ葉をとって身体を撫ぜれば必ず平癒する」と仰せになったので、村人はよろこんで社を建てたと伝わります。この地は現在、大将軍神社となっており当社の御旅所となっています。そして平清盛の時代の安元元年(1175年)、現在の地に遷されたと伝わります。また当社の境内には「播州皿屋敷」のお菊さんを祀ったお菊神社があります。社伝によれば永正元年(1504年)、姫路城主小寺則職が病になった時、お菊が主君の病気快癒に当社に参詣したとあり、お菊さんが町之坪弾四郎に殺された後、則職がお菊の忠義を報いるために祠を建てたのだと伝わります。©芳賀一也
お菊神社(三菊大明神)
永正元年(1504年)、姫路城主•小寺則職が病に倒れた時、腰元•菊がこの神社に詣でて、主君の病の平癒を願います。その甲斐あって則職の病は平癒しますが、悪家老•青山鉄山によって則職は姫路城を追われます。内情を探るために腰元として姫路城に入った菊ですが、菊に懸想する町之坪弾四郎に家宝の皿を失くした罪をなすり付けられ殺されてしまいます。姫路城を取り戻した則職は菊の忠義に報いるため、ここに祠を建てたのだといい、これがお菊神社だと伝わります。
御祭神
- 少彦名大神スクナヒコナノオオカミ
- 菊姫命キクヒメノミコト
十二所神社の現祭神は少彦名神。延長6年(928年)、一夜にし十二茎の蓬が生じ、蓬菜をもって諸病を治すべしという信託により長畝の森といわれた南畝字大将軍に創建されたと伝える。安元元年(1175年)、現在地に移ったという(播磨鑑)。「播磨国衙巡行考証」に「のふねん村・白銀町・たて町大道小路下・西魚町南側・船場大蔵前・しのび町は十二所氏子」とある。拝殿が東向きとなっているのが特徴。境内には摂社として姫路城伝説の「播州皿屋敷」で知られるお菊を祀るお菊神社(旧三菊大明神」がある。(「兵庫県の地名Ⅱ)
播磨の牡蠣
播磨の冬の味覚といえば『牡蠣』です。
牡蠣といえば三陸や広島と思われがちですが、今、東京の一流料亭で使われているのは、ここ播磨で採れる『一年牡蠣』です。
通常、牡蠣は二年から三年で成長し、出荷されますが、播磨の牡蠣は、わずか一年で成長します。その理由は播磨の豊かな山々の森林にあります。ブナ、トチ、ミズキなどの広葉樹の原生林で培われた栄養分が千種川や揖保川といった河川で運ばれ、播磨灘に注ぎ込みます。この豊かな栄養分を食べた牡蠣は、わずか一年で出荷できる大きさに育つのです。こうした栄養分を蓄えたその身は加熱しても縮まず、産卵をしたことがないため牡蠣独特の臭みがありません。
ですから播磨の牡蠣は生で食べても当然おいしいのですが、加熱してもあのプリプリした食感が残ります。姫路に冬にいらした際には、この『一年牡蠣』をぜひともご賞味ください。
名古山
名古山は姫路城の西北約1㌖にある小丘で、山全体が墓地公園(名古山霊園)となっており、お彼岸やお盆には墓参に訪れる市民で賑わいます。山上には高さ38㍍の仏舎利塔があり、塔内にはインドのネール首相から贈られた仏舎利を納めた仏舎利殿や釈迦三尊、十大弟子の立像などが安置されており異国情緒が漂います。苑内は4月上旬には桜、中旬からはツツジが見頃となります。
また名古山は知る人ぞ知る姫路城のビューポイントで、2月後半と10月中旬、姫路城の背後から朝日が昇る様子を望むことができます。
姫路城から登る朝日
年に二度、2月下旬と10月中旬の二度、姫路城の背後から朝日が昇ります。撮影ポイントは姫路城の北東1㌖のところにある名古山です。この時期の夜明けは午前七時頃、バスで行けばぎりぎり間に合いますが、タクシーを呼ぶのが安全でしょう。この山は姫路市民からは名古山霊園として親しまれており、山上にはインドののネール首相から贈られた仏舎利を納めた仏舎利塔がそびえ、周囲は異国情緒を漂わす公園となっています。
神姫バス(今宿循環)で約15分「車崎」下車
景福寺山
景福寺山は姫路城の南西にある小丘で、山の北東面の景福寺公園には展望台があり、姫路城の絶好のビューポイントで、「姫路城十景」の一つとされます。
この山の山上から見る姫路城はさらに美しいのですが、山上に行くには、この山の南麓にある景福寺から登らなければなりませんが、山上には第37代姫路城主・松平明矩の墓所があります。
実はこの山は姫路城にとっての弱点となる山で、明治維新の際には新政府軍がこの山に布陣し砲台を築き、砲撃を加えました。そのため歴代城主は、この山を守るため、この山の麓に菩提寺を建立しました。
景福寺公園への行き方
姫路城から西へ徒歩10分
神姫バス市の橋文学館前下車すぐ
景福寺への行き方
姫路城・姫路駅より徒歩30分
神姫バス元町3丁目下車徒歩5分
神功皇后の遺蹟
神功皇后が三韓御退治の御時、当国福泊の沖まで御船が来る時、雨しばしはれ間と勅があったので、晴間の沖といいます。風が吹き泊まったところを吹留りといいます。今、福泊(印南郡の内にあり)といい、当州を晴間の国といいます。
さて神功皇后は、御野庄の麻生山に御登りになり、大神地祇を十七日間、お祭りされました。麻生山をこの時までは葦男山といいました。神代より大巳貴命が御鎮座の山であった故、大巳貴命の御別名アシハラノシコオを略し、山の名としたのでしょうか。そして神火をお掲げになられた所を火の山といい、また神楽山といいます(御着村の山で村より6、7丁辰巳の方です)。
神功皇后は、近隣に幡矛神鈴を立て給い、矛を立てた所は山脇村の山といい、鈴を立てた所は鈴野といい、御着村の西です。幡を立てた所を幡野といい、山ノ脇村の東だといいます。御馬を繋いだ所を鞍淵といい、今は山ノ脇村の西山の麓の川淵です。
八流の幡のごとく慶雲の瑞があったところを、はた下山といい、今は八ヶ谷山といいます。
神功皇后の御陣があったところを姫の御前構山といい、印鐸の落ち止まった所をインチャク大明神といいます(山ノ脇村に祭られています)。
麻積の祖・竺志直の命に命じ、弩の弦を求めよと勅された時に、大巳貴命の神託として一夜の内に山に麻が生えたので、後に麻生山と名付けられました。
神功尊が弓弭でこの山の巖を穿ち給われた所を泉出の清水といい、鳴動石といい地震の前に鳴るのは、この清水の岩です。岩がががたる下に岩の重りが動くことがあります。古記に播磨ゆするの山というのがこの岩で、故に石動山と書きます。
このところに後に八幡を祝い祭るのは八幡屋敷の跡が峰の平地にあったからです。
これ麻の苧をさらした川を苧川といい、今は小川といいます。
御試に御弓を引き給う的を建て給うのが印南郡の中です。初めの矢は的の辺に飛んで、あだ矢となって落ちたので的涯といい、今は的形といいます。
一矢またあだ矢となって落ちた所を矢おち村といいます。今は飾西郡安室郷です(新在家村)。後に矢落村より北へ遷ったと見え、このところに古に神社があり、射楯兵主神といい二座・大巳貴と五十猛です(後に同郷辻井村に祭り、今は行矢明神という。延喜式に入っています。その頃は矢落村に祭っていたと古記に見えます)。
二の矢は余部庄青山村に落ちました。射目崎明神と崇祠します(古記に青山村 夢前川の所 昔はイルメサキ明神を祭り、昔はイメサキ川でした。夢埼川とは人丸の夢に住吉の御告げがあったという伝わります)。
三の矢は太市の郷の大石を射て、貫いたので破岩の明神といいます(太市中村の近所の山に三つに割れた岩があります。その上、山脇の氏宮は八幡宮といいます)。
大巳貴命が穴無の沖で神功皇后にお託しになり、西国への供奉のお告げがあり、川の瀬が早く、風が吹きたてますが、壊れた船はありませんでした。穴無村に速川の社として尊祠されています。麻生山の西の川にして水を引いて山を穿ち、神田の潤溝を掘らせ給うのをカナウタの井といいます。今、兼田と記すのは誤りです。
またこの時、神功皇后は神崎郡高岡庄内のつねや棚原山で天神地祇をお祭りになり、土師臣某を以て埴土を求め、大坪•小坪の土器を作り、八重の棚を構え、七重のしめを引き祭りになられ、土を取ったところを埴岡といいます(今、村を土師という)。握ってお集めになったところは岡部川の辺といいます。この近辺を川述の庄といいます。岡部川の上で土器を焼いたところを瓦屋村といいます。幣が神風で飛び散ったところを幣の庄(今、印南郡ヘイノ庄)。また神功皇后、御帰朝の時にも麻生山に御登臨になり、新羅の王子箕子を人質として当国にお止めになりました。この王子が天奏して揖保郡峰相山に精舎を建て、鶏足寺という。天正の頃、秀吉公に退散させられたといいます。
また木庭村の八重岩は神功皇后が宿され、天神地祇に御祈りになられた時、大巳貴命が姿を現されたところです。また同村に楯岩といって木庭山の東の方一反面ほどの岩があります。これは神功皇后が御弓を御試しになった楯岩です。
また神功皇后が五壇山にて三韓退治を御祈りになったので、山の周りに花壷があるのです。
蘆男山
我が国の あしをの神の岩くらは 長き世までの 石の印は
神くら山
播磨潟 ひとの國をば しつめんと 門出いさをし 神くらの山
棚原山
今も猶 此の神がきを あふくなり むらかりつとふ 棚くらの神
岡部川
岡部成 なつみの昔 跡たへす 今もまつりに 笠をいただく
早川
今とても 流れ絶せぬ 早川の 水底清く すめる宮ゐは
火の山
古しへに 神の明しの 火の山は 社久しき 道しはをふむ
古しへに 神のあかしの 火の山を 神楽の山と 名付たるらん
ヘイノ庄
神もよく 幸吹風に 幣とめて 真の水を 井にのこしつつ
この近所の神吉村(印南郡)に真名井ノ清水があります。神吉とは神の幣が降った故です。印南郡の部に見えます。
八重岩
八重岩の なきには神も いましけん つねにぬかつく 麻のゆうして
古しへに 諸神達の つといしに 空もはれまの 國のしるしや
この他、この国には神功皇后の故事が多いので、爰にもらします
(播磨鑑より)
姫路の城下町の雑煮
姫路の城下町に伝わる雑煮は、元旦は白みそ仕立てに丸餅、二日はすましに切餅、三日はぜんざいと決まっていました。
元旦の雑煮の具は人参と大根(もしくは蕪)、そして鶏肉と穴子が入り、最後に三つ葉を添え、餅は焼かないで入れるのが常で、二日目の雑煮も具は同じでしたが、餅はのし餅を切って焼いて入れると決まっており、三日目は、ぜんざいでした。
姫路周辺の雑煮は三箇日を通じて白みそ立てで、二日目にすましの雑煮を食べるという風習は城下町にしかありません。しかも鶏肉が入っているところなど群馬県前橋市の雑煮に似ていることから、江戸時代後期の城主である酒井家が前橋からやってきたことの影響ではないかと思われます。
戦前は四日はおせち料理の残りを粥にした強粥で、七日は七草粥、そして五日も六日も決まっていたといいますが今は伝わっていません。
豆まき〜播磨国総社〜
2月3日(水)午後3時過ぎから播磨国総社では、福男福女による豆まきが行われます。豆まきとは煎った大豆を撒いて、疫病や災いをもたらす鬼などの悪霊を追い払う儀式で、神社や寺院だけでなく家庭でも行われます。この日、播磨国総社の境内には、福男福女の投げる豆(袋入り)や餅を求めて、多くの人が集まります。そして歳の数だけ豆を食べると病にかからないといわれています。 Continue reading 豆まき〜播磨国総社〜