姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。福中門(はじめ備前門)内で俵町の西に延びる東西の町筋。元亀年間(1570-73年)頃、大名町南側、中ノ門の西、竪町筋の西から現在の福中町周辺をといい、船場川右岸の現在の福中町周辺を下福中村といった(「播磨国衙巡行考証」知恵袋)。慶長6年(1601年)の町割によって、上福中村は外曲輪の区画内に取り入れられ町場化した。慶安2年―寛文7年(1649~67)の侍屋敷新絵図に町名がみえる。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控によれば家数61・地子銀643匁。寛永年間(1624〜44)には堀浚えをした泥土を山陽道筋の本町・坂元町の往来に敷いたため旅人の往来が当町筋も変わり、旅亭が多くできて駅馬の便もよかったという(姫路府志)。旅籠町ともいわれ、享保18年(1733年)には旅籠屋20軒(姫路町書上帳)、寛保2年(1742年)には21軒(「播陽姫府町方控覚」前川家蔵那波文書)、宝暦5年(1755年)、姫路の旅籠屋27軒のうち当町は17軒(播州姫路考略記)、寛政2年(1790年)、19軒(「姫路町本家数并順町割御礼控」穂積文書)。茶屋・米屋・金屋・古金屋・紺屋・浜田屋・網干屋・灰屋・明石家・和泉屋・見野屋・飯田屋などがあった(大正8年刊「姫路市史」)。宝暦10年(1760年)の幕府巡検使接待に小間物類商の海老屋茂右衛門、刻たばこ商の灰屋次郎右衛門があたっている(新版「姫路市史」)。元文元年(1736年)、人足問屋・鉄屋四郎太夫は米手形預証文(前川家蔵那波文書)を町大年寄宛に差し出している。大年寄から人足問屋に毎年100石の米を貸し与えたもので、証文の文面に、「各様御預かりの米弐百石之内」とあるから二軒で人足を調達していたらしい。安永2年(1773年)にも人足問屋・紺屋庄兵衛の名が見える(「姫藩典政録」酒井家資料)。文化8年(1811年)3月3日、伊能忠敬が書写・広峰・増位諸山を測量して当町・井上庄兵衛方に宿泊した。同10年(1813年)12月29日にも同所に宿泊して新年を迎え、1月4日、仁豊野に向かった。元治元年(1864年)、矢内重三郎が紅金巾500反を神戸洋商から仕入れ、洋品直取引の始めといわれる(大正8年刊「姫路市史」)。「兵庫の地名Ⅱ」
戦国時代末期、元亀年間(1570~73)、中村の南方、雲見川(歴史地名書写方面より南流)・妹背川(歴史地名大野川および船場川の一部)の合流地点の一帯を「福中」と称し、上福中村・下福中村に分かれていた。上福中村は中の門周辺に及び、40余戸あり、戸長は福中三郎左衛門であった。輝政の時、現在の福中町に移っている。下福中村は、その後、福中村と称し、大正元年(1912年)、福澤村と改称している。
明治13年(1924年)4月、姫路市制施行後も引き続き、福中町と公称した。昭和37年(1962年)より自治行政の規模適正化によって福中内新町と単一化し自治組織も福中町自治会に一本化した。
藩政時代は西国街道の城内西端の位置を占め、運輸・通信・旅行等のセンターでもあった。酒井藩が前橋より転封した頃、城下には旅籠屋は神谷10軒・福中町17軒と計37軒あった(播州考略記)。酒井藩制後半となると、福中町は繁栄を重ね、旅籠町と別称されるぐらい旅籠が軒を並べ、姫路最大の旅籠センターとなった。また人馬の取り次ぎを行ったり、仕切ったりした人足問屋や伝馬所が置かれた。備前門を西へ出たところに博労町がある。ここは馬の面倒をみたり、馬の調達・仲買が行われ、福中町との関連は深かった。
明治に入っても姫路経済の中枢的な機能を発揮し、経済界のリーダー・浜本八三治郎・神村信五郎・矢内久七・三宅正太郎ら、人材も多く輩出した。商店街としても船場本徳寺の門前町的性格を失わず、戦前まで繁栄が続く。戦災によって壊滅し、復興はやや遅延し、漸く一般商業、とくに飲食店、バー・スナック等レジャー街として活性化しつつある。(ふるさと城南ものがたり)。
伊能忠敬の止宿
わが国初の科学的測量による日本の全国地図を完成させた伊能忠敬は(1745~1818)、その測量日記において、文化10年(1827年)12月、福中町の本陣・井上庄兵衛のところで止宿し、新年を迎えている。このほか三回、姫路とその周辺を測量している(姫路三十年史)。(ふるさと城南ものがたり)。
姫路郵便取扱所
明治4年(1872年)11月、福中町の伝馬所内で姫路郵便取扱所が置かれ、小林仁一郎が責任者として、郵便取扱人を申し付けられた。長い間、赤塗りの木製箱型ポストがここに立っていた。明治23年(1890年)5月、古二階町の寺跡に移転している。明治36年(1903年)、姫路郵便局と改称した。