姫路城南西の外曲輪に位置する武家町。新身町の南の十二所権現前にあたる。慶長6年(1601年)の町割で成立した。慶安2年ー寛文7年(1649〜67)の侍屋敷新絵図では新身町と外堀の東西に連なる15の侍屋敷が当町にあたり、南西端の外堀の屈曲するところに十二所権現がある。元禄8年(1695年)写の姫路城図には「小役人町」と書かれ、十二所権現の前の南側に土手を背にして続いている。宝永8年(1711年)の姫路城下町絵図では長屋は「同心グミ」となっている。文化13年(1816年)以前の侍屋敷図では10軒の侍屋敷のうち住んでいるのは7軒で3軒は空家らしい。ほかは組屋敷になっている。十二所権現の前に寺跡とあるが寺名は不明。十二所神社の現祭神は少彦名神。延長6年(928年)、一夜にし十二茎の蓬が生じ、蓬菜をもって諸病を治すべしという信託により長畝の森といわれた南畝字大将軍に創建されたと伝える。安元元年(1175年)、現在地に移ったという(播磨鑑)。「播磨国衙巡行考証」に「のふねん村・白銀町・たて町大道小路下・西魚町南側・船場大蔵前・しのび町は十二所氏子」とある。拝殿が東向きとなっているのが特徴。境内には摂社として姫路城伝説の「播州皿屋敷」で知られるお菊を祀るお菊神社(旧三菊大明神」がある。(「兵庫県の地名Ⅱ)