この地域は比較的高台状で北隣の久保町の低湿窪地に続いていた。高畑ともいい、綿・桑畑等が多かった。これは乱流した河川によって扇状に運搬された土砂・岩くずが厚く堆積する。この堆積し傾斜した高い土地は水利も悪く畑地化するもので、高尾町付近の地形もこのような扇状的な形態であった。
明治45年(1912年)4月、国衙村大字豊澤村の姫路編入にともない、字高尾・桶ノ本および大将軍の一部をもって1ヶ町とし高尾町と呼称した。昭和36年(1961年)の自治行政の適正化から南畝町の一部繰入れ、久保町への一部移管が行われ、昭和59年(1974年)、法制化する。高尾町自治会を組織している。
明治37年(1904年)〜38年(1905年)の日露戦争の頃はわずか1戸しかなかったが、明治43年(1910年)、人工温泉ながら高尾温泉が設立された。これは白国の増位温泉に対抗して経営されたのであるが、人気を呼び好評を博したが、戦後は一般浴場となる。大正7年(1918年)、姫路製紐・日本製氷等の工場が相次いで設立されてからは工場地帯として活気を帯びてくるのである。
戦後は都市計画道路の導入と昭和40年頃の日本住宅公団による大規模マンションの建設、製材、製紐等工場の撤退等によって、住宅・商業混合地域として変貌して行った。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)
高尾マンション