大名町

姫路城南の中曲輪に位置する武家地。桜町の南で惣社門の西から車門までの東西に長い町筋。大明町(大正8年刊「姫路市史」)・大身町(享保3年「城内守備配置図」)とも書いた。町内の東西の筋は惣社大明神の参道にあたるため大明神筋・大明筋と呼んでいたことから大名町と称するようになったいう説や、姫路藩の重臣が居住したので大名町と称したという説がある(大正8年刊「姫路市史」)。また城下町割までの字名からとったいう説もある。慶長6年(1601年)の町割により中村と福中村の一部が中曲輪の区画内に取り入れられて町場化した。当町南の中堀土堤沿いは藪ノ端と呼ばれた(元禄11年写「本多家家中侍屋敷図(姫路城史)」
江戸時代を通じて家老をはじめ重臣の屋敷が集中している。慶長5~8年の姫路城郭図などによると、3万3千石の伊木長門を中心に1万石以上の家臣の屋敷がすくなくとも5軒、そのほか大部分が500石以上の上級侍屋敷で占められている。屋敷数は計28軒(空家3軒を含む)で、藪之端に20軒あった。慶安2年ー寛文7年(1649~67年)の侍屋敷新絵図に当町東の惣社門筋に面して会所がみえるが、元禄8年(1659年)の姫路城図では当町の西側にも会所が設けられている。宝永元年(1704年)の榊原氏入封後東の会所は評定所となり政務を評議したが、西の会所は侍屋敷となっている。享保3年(1718年)の諸門守備分担定(榊原家資料)によると、藪ノ端を裏町とし藪ノ端という言い方と並称していたらしい。寛延2年(1749年)、大雨で船場川が氾濫し、車門・埋門・鵰門・中ノ門が崩壊(姫陽秘鑑)、当町も相当被害を受けたと考えられる。同年、姫路に転封となった酒井忠恭は上野国前橋(現群馬県前橋市)にあった藩校の好古堂を姫路に移し、惣社の北、内京口門西の家老屋敷をあて(白鷺城旧図)、まもなく当町の評定所の地に移し、文化13年(1816年)、大手門前に移すまでこの地にあった(「好古堂定書」姫路神社蔵)。明治4年(1872年)、廃藩置県により侍屋敷は取り払われて官有地となり、鎮台練兵場や兵舎に変貌していった。明治12年の姫路城市縮図によると西の車門から鵰門にかけての一角はまだ町名が残り、旧屋敷が残存していた。明治初期、本町の一部となる。明治7年(1875年)、木村博明が同志数名とともに貧民施寮の病院を開設した。のちに会社病院と称し、明治9年(1877年)、姫路で初の公立病院、明治15年に県立となり南町に移転した(大正8年刊「姫路市史」)。(兵庫の地名Ⅱ)

総社西門から西方船場川に至る東西道路両側の一帯で、白鷺小中学校などを含む広大な範囲である。総社は惣社大明神と称し、一般の崇敬は極めて高く、この大名町の大名筋は大明神筋とも呼ばれた時代もあった。赤松時代は姫路の里とも称し、中村に属していた。輝政の町割によって戦国時代の字名をとって大名町としたとされている。会所・御用場・上級家臣の屋敷ともなった。幕末、家老高須隼人の居宅は10560㎡(3200坪)あり、家老クラスの宅地は9900㎡以上が数ヶ所あった。重臣クラスは大名町・桜町に多く、いずれも4000㎡から5000㎡あり、一般家臣は990㎡1160㎡の規模が多かった(糸田恒雄レポート「郷土史の研究」)
大名町の一画に明治7年(1875年)、木村博明らが欧米タイプの医療施設として、貧民を対象に会社病院が設立された。姫路における初の病院であった。明治9年(1877年)、公立病院に衣替えした。明治15年(1883年)、さらに県立病院となり、南町に移転した。現在の城陽ビル南側の一帯であった。明治34年(1901年)、建物を姫路警察に譲り、龍野町5丁目、薬師山のふもとに移転する。この時、日本赤十字に施設一切を移管して日赤病院に変身し今日に至っている。(ふるさと城南ものがたり・昭和53年刊)