本多藤原政武公御時代播陽飾東郡国衙庄姫路図
静嘉堂文庫
元禄十五年(1702年)以降
本多藤原政武とは本多忠国のことで、第二次本多時代の城下町絵図である。城下だけでなく周辺の村々や山なども描く。おそらく城下町の外側にある留ヤマも描写しようとする意図があったのであろう。甲山(現在の冑山)のところに三社宮を勧請した年紀を元禄15年(1702年)と記すので、この年が絵図作成時期の上限となる。
内曲輪では現在の天守丸を朱で囲んで「本丸」と記す。通路は朱線で示し、各門には朱書する。「鵰門」内の大名町には都筑惣左衛門の屋敷がある。その一区画北にあたる桜町では都筑惣左衛門の名前が消された痕跡があったり、ろノ門とをノ門が逆になっている。基図からの書写の際に間違ったものであろう。また西の丸と「三左衛門殿丸 山里」(上山里曲輪のこと)だけに敷地寸法が記入される。備前丸には「御殿有御前丸」とある(「播州姫路城図」では現在の折廻櫓を「御前櫓」とする)。三の丸居城部分には御殿そのものの描写はないが「虎ノ間玄関口」、「台所口」、「小納戸口」など七つの出入口が明示され、御殿エリアをとくに区分している。西の丸では「西の丸 中書丸ト云 屋形アリ」と記され、規模は不明ながら屋形(御殿)がまだ残っていたことを示唆する。
南の城外には三左衛門堀が描かれている。絵図の中には姫路城の南部外堀と接続させて描くものがあるが、本図では細長い溜池のように描かれている。(姫路城絵図集)