姫路城の南西にある福中門(初め備前門)を出たところから少し南に位置する町人町。富田町の北で船場川に沿った町。姫路藩の米蔵があった。慶安2年ー寛文7年(1649~67)の侍屋敷新絵図に「藏之前の町」とある。当町の南東に船場蔵があり、南に葛屋町(のちの富田町)がある。姫路町書上帳、元文5年(1740年)の姫路町飾万津町地子銀控よれば家数16・地子銀44匁余。寛延2年(1749年)の洪水で死者4人を出し(「溺死流家潰家事」出口家文書)、船場大蔵も半壊したという(姫路城史)。寛延4年(1751年)頃の大蔵前絵図によると、船場川が屈折している所に沿って道を挟んで船場川向きに17軒が並び、ほとんどが間口3間4尺までの町家。(兵庫県の地名Ⅱ)
藩政時代、酒井忠恭公、寛延2年(1749年)、入部のとき、大蔵前と呼称した。船場川のほとり、米蔵の建ち並ぶ重要な地域であった。
市制施行の明治22年(1889年)4月1日、大蔵前の町名を引き継いだ。大正元年(1912年)、下片町・富田町および福中村字後尺の3ヶ町を大蔵前に編入し、ここで大蔵前町と改称している。富田町は旧名を屑屋町・葛屋町等になっていた。
明治35年(1902年)4月1日、西尋常高等小学校が大蔵前町に設立された。のち義務教育6年制に改正されたため、明治41年(1908年)に廃校となる。大正14年(1925年)、姫路女子技芸学校を改名した姫路市立高等女学校が、この建物に移り、昭和13年(1938年)、車崎に移転するまでここに在った。
戦前、大蔵前から船場川を横断して西塩町へ通じる道路に架橋された御祓橋があり、中堀(※外堀の間違い)には松影橋があり、中堀(※外堀の間違い)と船場川の中間にある土堤には見事な松が林立し緑化環境は見事なものであった。
関西電力
姫路電燈株式会社が明治30年(1897年)、大蔵前町に創立した。姫路市内の電燈用として電力60キロワットを供給したのが始まりで、明治43年(1910年)、姫路水力発電株式会社と改称した。水力発電によって中播・西播にも供給するようになる。
大正7年(1918年)8月の米騒動のとき、同社の職工・人夫100余名が米価の高騰を主な理由として三割方の値上げを会社側に要求してストライキを行っている(「神戸又新日報」大正7年8月)。
大正15年(1926年)、同社は中国合同電気株式会社と合併して同社姫路支社となる。昭和17年(1942年)、国策に沿って関西電力株式会社姫路支社となり目まぐるしく変転しながら発展を遂げていった。
(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)