保城で市川から分岐して姫路城の西を流れ播磨灘に注ぐ川。流長12.3㌖。現在、市川の分流とされているが、「播磨国風土記」大野里の条の「砥堀」の由来に見える「大川が」船場川のことで、古くは市川の本流であったというのが通説となっている。天正4年(1576年)の播磨府中めぐり(智恵袋)に「両山をいもせ川と云、今わずか残る、此川上を二また川と云。」とある。両山とは姫山と妹背山とも長彦山ともよばれた男山のことで、この辺りの流れを「いもせ川」とよんだようである。「今わずか残る」とあるように中世には細々とした流れになっていたという。保城で分かれた流れは野里北部の山王神社辺りで二つに分かれて二股川といった。東流は現在の橋之町辺りを南に流れ、西流は伊伝居・八代を経て「いもせ川」へと南流した。この流れは今の千代田町辺りで雲見川と合流し、手柄山の東麓を通過して三和川とよばれ(姫路名所案内)、播磨灘に注いだ。
慶長6年(1601年)の池田輝政による姫路城の縄張りは螺旋状に堀をめぐらすもので、この時すでに西の外堀は船場川を利用したと考えられている。元和7年(1621年)、姫路藩主・本多忠政は飾東郡横手村地内飾磨樋と船場川筋の普請を終え、車門から大樋まで船で遊覧した(「芥田家伝記」芥田文書)。元禄8年(1695年)の材木町材木屋共口上書(穂積家文書)には、寛永元年(1624年)に船場川筋普請が成就して新しく材木町が取り立てられたとある。1620年代に二股川の遺流と妹背川を利用して新河川を普請し、まもなく船場川と呼ばれるようになったと考えられる。工事の目的は外堀の整備だけでなく、飾万津との間に船運の便を開くことにあった。船運が開かれると材木町・小利木町辺りに市が立ち、材木町の橋を市之橋といい、船入川もこの頃にできたのであろう。材木町・小利木町については、寛永元年の舟入新町地子帳(前川家藏那波文書)に「材木町・小利木町一紙之地子銀町ニ而舟入新町と云也」とあり、この辺り一帯は初め「舟入新町」と称したようである。慶安2年―寛文7年(1649~67)の侍屋敷新絵図では小利木町・材木町に続いて市之橋から南へ船場町・船場橋詰町・川の片町・船場片町・橋詰片町・船場蔵のある蔵之前の町と川沿いに町が発達しており、やがて川西一帯が船場とよばれるようになった。
重要な水上交通路となった船場川には高瀬船が往来し、上りは岸から船を引いて水上方面まで荷物を運んだ。おもな積荷は塩・茶・木綿・米穀・木・石・薪炭・石灰などであった(大正8年刊「姫路市史」)。姫路藩の蔵米を船場川から飾万津を経て大坂に回漕したが、姫路領秘書(姫路城史)によると、船場蔵から米を川端まで持ち出すには人足を用い、賃銭一俵につき二銭半、内蔵(上三方蔵・下三方蔵)から船場川端までは馬で運搬し、駄賃は一駄につき九合であった。飾万津蔵前に着き高瀬舟からの荷揚げは船頭がした。船場川は暴風雨による市川の増水氾濫などにより、正徳2年(1712年)・寛延2年(1749年)・文政9年(1826年)と何回か出水し、周辺に大きな被害を出した。なかでも寛延2年の出水は未曽有の出来事で、7月1日早暁から降り出した雨は3日黎明まで降り続き、ついに横手村の船場川取入口の大樋が決壊して大洪水となり、城下一円に大被害を与えた。特に船場川沿岸の船場方面は材木町・増位町の93人を最高に322人の死者を出し(「溺死流家潰家事」出口家文書)、流失した家屋も数知れず、被害を受けた川端の2・3の町が他所へ移転するほどであった。また船場蔵は半壊し、船場本徳寺も大破した。姫路城の西部・南西部にあるほとんどの諸橋・諸門も流出崩壊し。中曲輪にある桜町などの武家屋敷も相当の被害を受けた(姫路城史)。
現在の博労町にある亀の甲橋近くに本多忠政の設計に基づいたという亀の甲堰があった。これは割石で亀の甲形の堰を築いて水位を上げ、備前門から外堀となった東側の堀に水を送る役目をしたと考えられる。清水門外の船場川近くに石碑がある。文字は読めないが前掲口上書に「立石」と記載されているもので、船場川改修工事の記念碑といわれる。船入川は材木町の南端にある炭屋橋西に今も名残りをとどめる船溜りのことである。(兵庫の地名Ⅱ)