藩政時代には地形的にも低湿地で、地名も福中村字落窪となっていた。明治8年(1875年)、忍町・豆腐町・南畝村等6ヶ村が合併して豊澤村となったので、豊澤村は北条村・南条村・庄田村ら3ヶ村と合併して国衙村大字豊澤となる。
明治45年(1912年)4月、姫路合併に伴い久保町となる。当時は豆腐町の町裏として僅かの民家しかなかった。
大正3年(1914年)、十二所神社南側の外堀埋立が行われた頃より低湿の久保町の埋め立てが漸次続けられ、大正11年(1922年)頃からは平坦な土地になる。
戦災によって灰燼となったが、戦後の復興は食生活の確保を基盤としたため戦前の食品卸売市場街としての久保町は、いち早く焼跡より再起し、経済再建を果たした。昭和37年(1962年)、自治行政の規模適正化から忍町・高尾町の一部が久保町に移管され、久保町の一部が豆腐町に移管され、昭和59年(1984年)に法制化する。自治組織は久保町自治会である。
卸売市場街
福中内新町・坂元町の食品卸売問屋街が手狭になったことと、近郷生産農家らが既存の荷受問屋による流通経路より離れて新しい流通機構を求めていたこと等の理由で新市場街建設の機運が強まり、昭和3年(1928年)頃、菊川惣吉代議士・蟹江寿一郎県会議員・蟹江惣吉博融銀行頭取等政財界の協力により株式会社姫路中央卸売市場によって埋立整地を完了した久保町に簡易建築による5棟数十戸の簡易店舗が建設された。1戸当たり26㎡から150㎡あった。会社株8株をもったら入居できた。当初は入居する業者が少なかった。会社より1店舗家賃10円でよいから(当時米1升30銭)との要請に応じ、3年ほど遅れ、昭和6年(1931年)、川崎市蔵・木谷敏雄ら27〜8業者が丸青組合を組織して入居した。このほか丸八青果・かねふく青果・丸果・かねごう海産・かね利水産・三和藤らの青果・海産の仲買人、乾物・雑穀・食品等の卸商が軒を並べ、通称中央市場として順調に発展していった。
なお坂元町の横道水産をリーダーとして組合を結成した青果・塩干等の業者は昭和5年(1630年)頃、新設の京口卸市場へ集団移転した。塩干業者によっては姫路駅前方面から南町・豆腐町等に分散して営業していた。戦時中は姫路青果・山市青果等、相寄り、県の指導で兵庫県西部青果統制会社に一本化した。
戦後は地元業者が、いち早く立ち上がり、京口卸市場の業者も久保町へ合流し、隣の忍町へと拡大していく。青果・塩干の全国荷受機関の姫路青果・姫路中央青果・山市青果・姫路農産市場の4社を基軸として、乾物・漬物・菓子・雑貨の関連業者ら約300社が市場街を形成し、国鉄・山陽駅前という地の利も作用し、大変な発展を見せ、播州一円の台所としての機能を発揮した。
昭和32年(1957年)、姫路市営卸売市場が東延末に約5万㎡の土地に設立され、大手荷受業者を始め、大半の業者が移転したため、一時、卸売機能の低下をみたが、地の利を武器に移転業者の空家は埋められて再び繁栄を続けている(大森英一元大同青果専務および木谷敏男卸売市場運営協議会会長談)。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)