飾東郡に所属。姫路城南西の外堀のすぐ南、飾磨門(飾磨口)の西に位置する東西の町筋。飾万津町20町のひとつ。飾万津の町奉行の管轄下にあった。町名は忍の者を置いたことによるという(姫路市町名字考)。中世は南畝村のうちで、近世初頭に飾磨門から飾万津へ通じる街道沿いが町場化する過程で当町が形成したと考えられる。延宝5年(1677年)、新たに当町を侍屋敷とし、このとにあった薬師寺を飾西郡栗山村に移したという(姫路城史)。元禄8年(1695年)写の姫路城図では「しのび丁」は町家となっており、西端に欽城院と北村与兵衛組屋敷が見える。元文5年(1740年)の地子銀高101匁余(姫路町飾万津町地子銀控)。文化13年(1816年)以前の姫路侍屋敷図によれば欽城院と北村与兵衛組屋敷の跡が家老・本多主税助の下屋敷となっている。弘化4年(1847年)には人数84・寵數19はすべて本組であった(「飾万津中明細覚書」藤田家文書)。
明治8年(1875年)、谷町・豆腐町・宿村・芝原村・南畝村・南畝町と合併して豊沢村となる。(兵庫の地名Ⅱ)
姫路城曲輪の外に位し、外堀の南側でもあった。松平直矩の慶安元年(1643年)頃、飾磨津門口にあたる、この地にあった薬師寺を飾西郡栗山に移転させ、その跡を侍屋敷とし「忍びの者」を置いたので町名はその由来とされる。城の裏鬼門(※鬼門の誤り)ともいうべき丑寅つまり東北にあたる竹之門内に伊賀屋敷を設けていたのに対し、表鬼門(※裏鬼門の誤り)の未申、つまり西南に当たるこの地に置いた。当時の為政者の意図が見られる。この町の南端は道路に沿って片側のみの町並みとなっていたので片とうふ町とも称していた。
明治8年(1875年)、忍町・豆腐町・南畝村ら6ヶ村が合併して豊澤村となる。明治22年(1889年)、豊澤村・北条村・南条村・庄田村の4ヶ村が合併して国衙村大字豊澤となる。
明治45年(1912年)4月、姫路市に国衙村らが合併したのに伴い旧名名・忍町が復活し、同時に豊澤村落久保の一部および福中村字梅林が忍町に編入された。
大正2年(1913年)9月から大正3年(1914年)2月にわたり十二所神社南側の外堀は飾磨津門にかけて埋め立てた。その面積は3230㎡であった。埋立地は忍町となっている。
戦後は区画整理によって著しく変わり、南隣の久保町が卸市場街として繁栄を重ねるにつれて土地が狭くなり忍町の方へと市場街は拡大し、早朝営業を行う食品を中心に飛躍的に発展した。
昭和37年(1962年)、自治行政の規模適正化から久保町・十二所町・大蔵前町等の一部が繰り入れられ、自治組織は拡大された。
あいらく園
忍町の西端、十二所前南側の約5千㎡の地に戦災に会うまであいらく園という料理旅館があった。酒井家入部までは護念院という山伏寺院であった。その後、酒井家家老本多家の下屋敷がこの寺跡に設けられていた。西に隣接する船場川より水を引いて、池泉・名石を配した風格の高い庭園であい楽園と号していた。
明治の中頃、福中町の豪商・あが久呉服店の矢内久七が買収し、その後、ひさご茶屋が継承した。日露戦争の戦勝に軍都姫路が活気づいていた頃には、あい楽園は、当時、福島楼・井上楼とともに三軒だけ許されていた料理旅館として不動の地位を築き、姫路の名所として阪神間に知られたという。大太平洋戦争に入る昭和15年(1940年)頃までは播州一円の政財界の夜の社交場として、その名門をうたわれたが、戦災により灰塵となり、都市計画によって跡形もなくなった。
(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)