豆腐町

飾東郡に所属。姫路城南西の外堀のすぐ南。飾磨門(飾磨口)の南に位置する南北の町筋。外豆腐町として飾万津町20町に含まれ、飾万津の町奉行の管轄とされていた。中世は南畝村のうちで、町の形勢過程は谷町と同じ。慶安2年ー寛文7年(1649~67)の姫路城下侍屋敷新図には外堀の南は描かれていないが、飾磨門の北に内豆腐町がみえることから、外豆腐町の存在を推測することができる。元禄8年(1695年)写の姫路城図には「とうふ丁」がみえるが、元禄17年(1704年)の姫路城城下町数飾万津町数覚(伊藤家文書)に外豆腐町・内豆腐町が記される。元文5年(1740年)の外豆腐町の地子銀高は281匁余で、内豆腐町は姫路城下の加納町となっている(姫路町飾万津町地子銀控)。寛保2年(1742年)写の播州姫路図(姫路城管理事務所蔵)にも加納町が記されるが、外豆腐町はしだいに豆腐町と称するようになったようで、文化13年(1816年)以前の姫路城下侍屋敷図には豆腐町とみえる。弘化4年(1847年)には外豆腐町として人数114・寵數31(うち本組22・店組19で合計合わず)であった(「飾万津中明細覚書」藤田家文書)。
明治8年(1875年)、谷町・忍町・宿村・芝原村・南畝村・南畝町と合併して豊沢村となる。(兵庫の地名Ⅱ)

藩政時代。飾磨津門の外側に立地していたので、行政的には飾磨津の町奉行の支配下となっていた。飾磨津門の内側を内豆腐町と称していたのに対し、飾磨津門の外側のため外豆腐町と称し、明治初年まで続く。本多忠国時代(1682年~1704年)、豆腐の職人が豆腐町と称した。明治8年(1875年)、県の行政簡素化政策に伴い、豆腐町を始め、忍町・南畝町・宿村・芝原村等を合併し、豊年澤山の義をとり豊澤村と呼称した。
明治22年(1889年)、市町村自治制施行にあたって、豊澤村・北条村・南条村・庄田村の四ヶ村が合併して、国衙荘の名をとって国衙村と称した。旧地名の豆腐町は字として存置した。このように豆腐町は国衙町の村域に入ったわけである。
明治45年(1912年)4月1日、国衙村は圀府寺村・神屋村とともに姫路市に合併し、旧豊澤村は芝原村を除いて姫路へ編入されたので、豆腐町・忍町等が旧町名を復活し、姫路のまちへ仲間入りするわけである。なお豆腐町の小字には水田・万燈が残っている。
明治21年(1888年)に山陽鉄道、明治28年(1895年)に播但線のいずれも開通、機関区・鉄道官舎等の設置によって町は漸次発展していく。
大正12年(1923年)、豆腐町踏切に国鉄線往来の増加に大跨線歩道橋が敷設された。戦時中、金属回収の国策に沿って撤去されるまでは町の名物となっていた(※戦後の写真にこの歩道橋が写っている。戦後仮駅のホームとホームを繋ぐ架橋に転用されたという)。
戦後は主食・食料品等の自由市場となり、また「南地」等の密集飲食街ができるなど、異常な活気を呈した。
昭和41年(1966年)、モノレール軌道の開通に伴い、大将軍駅までの幹線道路(高尾線)が町内を東西に貫通し、町並みが近代化された。
昭和37年(1962年)、自治行政の規模適正化により、駅前町・久保町の各町の一部が繰り入れられ自治組織が拡大された。

姫路機関庫
明治21年(1888年)、神戸~姫路間の鉄道が開通し、駅舎・機関車庫等が豆腐町の町内に建設された。明治36年(1903年)、煉瓦造りのトンネル型車庫が建てられ、10台の機関車が回転台によって出入りできる大規模なもので、戦災にあうこともなく存置されたが、国鉄の電化に伴って廃止された。

豆腐町駅
明治28年(1895年)4月、播但鉄道株式会社によって、姫路~飾磨間が開通したが、同31年(1898年)4月、飾磨行専用駅として、簡易停車場を設けられ、通称豆腐町駅として利用者に馴染まれた。明治末期の汽車賃は姫路~飾磨間3銭、亀山~飾磨間2銭であった。特に夏は飾磨海水浴場行の一般客・学生・児童で活気を呈していたが、昭和初年、駅は廃止され、本駅舎内に移転した。(「ふるさと城南ものがたり」昭和58年刊)