「とみや薬房」は四代将軍德川家綱の時代の天和4年(1684)に開業した老舗で、疳の虫の妙薬「龍虎丹」は富山の「反魂胆」伊勢の「萬金丹」とともに全国に知られたといいます。
旧西呉服町(きゅうにしごふくまち)
江戸時代前期、ここ白銀町北部には紙屋が多く、「西紙屋町」と呼ばれていましたが、呉服屋が多くなったせいか、まもなく「西呉服町」となりました。
しかし「西呉服町」は、昭和59年、区画整理のため「白銀町」に合併され、その町名は失われました。
姫路神社跡(ひめじじんじゃあと)
明治十三年、旧藩主の慈悲に報いようと酒井家の元藩士や大庄屋•大年寄らが中心となって酒井家を顕彰するため、ここ年行事跡に姫路神社を創建しました。
しかし中濠跡に国道二号線が敷設されることとなり、昭和二年、姫山公園内に遷座されました。
ちなみに年行事とは町の大年寄たちが政務を行役所のことです。
三十八銀行跡
明治4年、廃藩置県によって失業した武士のために政府は金禄公債を公布しますが、職を変えるというのは難しく多くの武士が困窮しました。
そのため明治9年に国立銀行条例の改正により金禄公債を原資とすることが認められると、伊藤長次郎らは武士たちの資産保持を目的に、この場所に第三十八国立銀行(のちに合併し神戸銀行となる)をこの場所に設立しました。
外濠跡(そとぼりあと)
この場所は江戸時代、姫路城の外濠があり、その幅は約14メートル、全長4232メートルに及んだ。
明治21年、外濠の土塁を崩して、その土を城外の田んぼに投げ込み姫路駅が誕生し、外濠には土橋が架けられた。
しかし駅前の発展とともに徐々に外堀は埋め立てられ、今日では姫路城の東部と西部にわずかに残るのみである。
飾磨津門跡(しかまつもんあと)
姫路城南方の外濠にかかる門で、姫路城の外港である飾磨津に向かう街道に向かって開かれていることからこの名がある。
明治時代になるとこの門は破却されその跡に公立姫路病院(のちの姫路赤十字病院)が建てられた。
西国街道(さいごくかいどう)
慶長6年(1601)、池田輝政が姫路城主となった時、城南に新たな城下町を築き、ここに西国街道を通しました。
しかし本多忠政が姫路城主の時、中濠の泥をさらい、その泥をここから西の街道に敷いたため旅人が難渋し、人びとはここから南に下り、西二階町を通るようになりました。
国府寺家本陣跡(こうでらけほんじんあと)
ここ札の辻の南東には、姫路町の大年寄を勤めた国府寺家の屋敷があり、大名や旗本などの宿泊所である「本陣」を勤めました。
そもそも国府寺氏は播磨国造の子孫にあたる家柄で、藩主が入部する際には町家•在所の代
表として挨拶するしきたりとなっていました。
しかし国府寺氏は廃藩置県とともに東京に移住し、その後は黒住教会などになったといいます。
お夏の生家跡
「お夏清十郎物語」で有名なお夏はこの看板の向かいにあった「但馬屋」という米問屋で生まれたといいます。
事件が起きたのは万治二年(1659)のこと。お夏は店の手代清十郎と恋に落ちますが身分違いの恋の末、清十郎は死罪となり、お夏は狂乱したといいます。
姫路城の北東に野里にある慶雲寺にはお夏と清十郎を供養するために建てられという「比翼塚」があります。
旧新身町(きゅうあらみまち)
「新身町」は塩町の南ある町人町で、慶長の町割当時は「南片町」と称し、その後、「新身町」となったようで、新刀を売る店があったので名付けられた。
戦後、城南小学校の移転に伴って町が狭小となり、昭36年に自治会が消滅、昭和59年、
に「塩町」等に合併されました。